「風見鶏」は、あのペトロの経験を表すものとしても知られている。9世紀に教皇ニコラウス1世が全ての教会に取り付けることを命じて以来、教会堂以外の建物にも普及したそうだ。イエスの受難、罪への警戒、警告を告げ、勤勉などをも象徴するものだったが、「あの人は風見鶏だ」と言えば、定見を持たない日和見主義とかご都合主義と、酷く悪い意味しかない。
しかし私は、自分は風見鶏でありたいと思っている。主イエスを完全に否んだペトロも、教会の迫害者パウロも、180度の方向転換を経験した。ただ、彼らは自ら方向を変えたのではない。聖霊を受けて方向を逆転させられた。その後の人生も、聖霊によって御言葉を語ることを禁じられたりイエスの霊によって前進が妨げられる経験も含めて、常に主の霊を身に受けて方向を変えられ続けた。
屋根の上の風見鶏も自分で方向を変えることはない。風を受けては向きを変えられ、人々に風とその働きを証ししている。
「霊」は「風」。イエスは「風は思いのままに吹く。…霊から生まれた者も皆そのとおりである」と言われる(ヨハネ3・8)。風は見えないが、はっきりと感じることができる。聖霊も目に見えないが、その力は見えるかたちで現れる。主の霊が吹いて来る方を感じ取って、振り向く風見鶏でありたい。
(教団総会副議長 藤盛勇紀)






