見ずに信じ、伝えます
あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。
ペトロの手紙一1章8〜9節
渡邊 義彦
40日に何があったのか
主イエス・キリストが復活されて昇天なさるまでの40日について、聖書はあまり多くを語っていません。
使徒パウロのコリント教会に宛てた手紙には、「復活された主が弟子たちに御姿を現わされ、500人以上もの兄弟たちに同時に現れて、ヤコブや使徒たちに現れた」と。
そして、これは聖霊降臨後のことですが、「最後には教会の迫害者であった自分にも御姿を現わしてくださった」と記されています。また、四つの福音書が記しているところでは、主は復活なさって、エルサレムでも、ガリラヤでも御姿を弟子たちに示され、エマオへと向かった弟子たちと歩みを共にしてくださいました。
復活日から40日目、主がいよいよ天へとお帰りになることについて使徒言行録は、冒頭に、この40日にわたって、主が御自身を現され、神の国についてお話しくださったこと、食事を共にされたことを記しています。
けれども、この40日間のことは、それ以上には多くのことは記されているわけではありません。主が復活なさり、昇天なさるまでの40日にどういったことがあったのだろうか、と思います。
〝教会〟への備えとしての40日
十字架を恐れ、自分たちの命を守ることだけに懸命だったあの弟子たちを、聖霊が降ると共に、主の命を奪った同じエルサレムで、「あの十字架に上げられたお方こそ救い主であり、神の子である」と大胆に宣べ伝えさせるほどに、彼らを新たに生まれさせて、これから彼らが受けることになる迫害、殉教に十分備えさせることになったのは何ゆえか。このことのためこの40日はとても大切な期間だったと考えざるを得ないのです。よみがえられた主は、復活なさったその日に、直ちにマリアたち、十字架に立ち会った女性たちに、ペトロたち、十字架のもとから逃げ出してしまった弟子たちに、御自身が生きておられることを示されました。この最初の復活日に立ち会うことのできなかったトマスには、次の日曜日に御傷を示され、「これに触れ、手を入れてみよ」と主はおっしゃって、彼に、「信じる者となりなさい」と言われます。更に、主はトマスに言われます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。
主はほんとうに生きておられる、と弟子たちが信じることができるように、主が昇天なさった後も、主をこの肉の目が見ることがなくなったとしても、主がよみがえられ、生きておられると信じ続けることができるように、何度も弟子たちに、御自身が生きておられることをこの40日にわたって示されたのでしょう。エルサレムの十字架までの旅路でお語りなったことを、もう一度、繰り返しお話しくださったのでしょう。そして、何回にもわたって聖餐の食卓を一緒に囲んでくださったのでしょう。一年に一度、春に守られる過越の食事とは異なって、教会が聖餐を礼拝ごとに囲むようになった原点は、この40日にあったにちがいない、と考えるのです。
主を見ることなく信じる
主がよみがえられた御姿を見て、御声を聞いて、主が生きておられると信じることができて、弟子たちは初めて十字架の恐れを受入れることができて、ほんとうに主を畏れる者となったのでしょう。
弟子たちの信じることの道筋は、復活の事実に支えられて、ここから十字架へと遡ったはずなのです。主がほんとうに生きておられることを確かに信じて、「主はわたしたちの罪のためにほんとうに死んでくださったのだ」と罪赦されていることを信じたのです。そして、聖霊に満たされて、福音を宣べ伝える者として立てられたのです。
弟子たちは、幸いだったと思います。主の御声を直接に聞き、主の御姿に直接に触れることができたのですから。この彼らも、主の御声を直接に聞くことができなくなること、主の御姿を見なくなることに不安はなかったのだろうか、と考えます。
昇天の記事を読むと、弟子たちが直ちに神の国が到来することを期待していたようにも読めますし、今見ている主が、直ちに王となられることを期待していたようにも思えます。
しかし、教会は、主の御姿をこの肉の目をもって見ることがなくなっても二千年、途絶えることのない歴史を歩んできました。主が昇天なさった後の教会の歴史は、主を見ることなく信じて来た人たちの繋がりです。
ペトロは、キリストを見ないで信じる人たちが既に起こされている教会の最初の現実に触れています。キリストを見ていないのに素晴らしい喜びに満たされる人々がいることを目の前にしています。
ここは伝道の最前線
教会に仕えていてほんとうに不思議なのは、見ずに、しかし、御言葉を聞くことで信じる人たちが起こされ続けているということです。そして、あの小さなパンとわずかな杯に主イエス・キリストの命をいただいていると信じるが、決して過ぎ去らないということです。もし、これが人間の業であるならば、教会が歴史の荒波に耐えることは到底できなかったでしょう。
主がよみがえられたことを確かな基点として、弟子たちは、罪の赦しとして十字架を信じ理解しました。主が昇天なさるまでの40日にお語りになったこと、囲んでくださった食卓を確かに魂に刻んで、これを聖霊によって確かなことにされて、弟子たちは地の果てにまで福音を宣べ伝えることに出発します。
現代、教会は世界中に建てられています。それでは、伝道のフロントはもうないのでしょうか。教会は地の果てに到達したでしょうか。一人の幼子が社会に、世界に生まれるならば、福音を聞いたことがない人がわたしたちの周りにいるならば、ここは絶えず伝道の最前線です。この人に、あの人に、キリストがあなたを救ってくださった、とキリストと再びお会いするときまで、教会は見ぬままに信じ、伝えます。(柿ノ木坂教会牧師)






