寒くなると思い出す
六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 神にできないことは何一つない。」 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
ルカによる福音書 1章26節〜38節
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早稲田教会
久保 彩奈 牧師
2025年11月のメッセージを担当します、日本基督教団早稲田教会の久保です。
毎年、寒くなると思い出すことがあります。それは今から19年前の11月。まだ私が大学院生の時のことです。大学院で神学を専攻していた私は、社会学と神学の合同ゼミに出ていました。扱うテーマは「貧困」について。大学院の中では人気のあるゼミで、20名ほどの大学院生が履修していました。当時の私は「貧困」と聞くと、どうしても日本以外の国に思いを馳せることが多かったことを覚えています。しかし教授は、長く横浜の寿町と言う日雇い労働者の町で支援活動をしてきた方でした。ゼミの間、私が外国の「貧困」についてばかり発言していることに教授は気づいたのでしょう。教授はゼミ中に、語気を強めて私に対してこう言いました。「あなたは何もわかっていない。一度路上で寝てみなさい」
ショックでした。大勢の大学院生の前で叱られるような形で言われたことの恥ずかしさから、返す言葉も見つかりませんでした。でも、まだ若くて、ヤンチャだった私は、躍起になって、実際に路上で寝てみることにしました。場所は横浜、寿町。実際に行って、寝てみようと思ったのです。2006年、今から19年前、11月の出来事です。
私はある夜、寿町に行き、段ボールをコンビニの裏から拝借し、寝られる場所を探して彷徨い、歩きました。たまにすれ違う人がいれば、顔を背け、不審に思われないように。そしてどこなら少しでも安心して過ごせるのか、探しました。歩いては、少し休み、立ち止まることで体温が下がり寒くなればまた歩く。その繰り返しを、小さな寿の町で何時間も繰り返しました。
もう寒くて限界だと感じ、温かい飲み物を買おうと自販機の前に立っていた時です。すでにぐるぐると歩き続ける私を見かけていたのでしょう。1人の男性が「ねーちゃん、寝る場所、探してるんだろ。」と声をかけてくれました。そして指をさしながら、「あそこの自販機のところ、人来ないから、ねーちゃん、そこに行きな」と言うのです。うまく返事もできずに、お辞儀だけして、言われた場所に向かいました。
ちょうど寒波が到来し、真冬日の夜。段ボールを敷いて、横になってみると、アスファルトから伝わるキンとした冷たさが、体を刺すようでした。しばらくすると、今度は足音がしました。起き上がっても人影は見えず、怖くなって、目を閉じることもできません。教授に言われた通り、路上で寝てみたものの、眠ることはできませんでした。
気づけば、陽が昇り始めました。明るくなっていく寿の街を見ているだけで、なんだか安心して、涙が出てきました。しくしくおいおい泣いている私に気づいた人が、また声をかけてくれました。「ねーちゃん、あそこの公園に行きな。とにかく、飯食って、元気だしな」と言われ、言われるがままに、列に並び、おにぎりを食べました。
この首都圏で、路上で、生きる厳しさと過酷さを、痛感する体験でした。それは東京で過ごしてきて、見ているようで、見ていない、いや、見ようとさえしなかった現実があることに気づかされました。そしてその後、東京・渋谷で野宿者支援活動に携わるようになりました。寿ではなく渋谷にしたのは、子どもの頃から遊んできた渋谷で、今まで見ようとさえしなかった現実と向き合いたかったからでした。この活動に関わって今年で18年が経ちました。また、19年前の寿で過ごしたその日は必死だったので気づきませんでしたが、後になって、まるでクリスマスのような体験だったことに気付きました。そして、今ならわかるのです。
泊まる場所を探して彷徨う、ヨセフとマリアは、どれだけ不安な気持ちだったでしょうか。そして、家畜小屋というきれいな場所でなかったとしても、「そこにいて良い」とされる場所が与えられる、その思いを想像します。そして夜通し野宿をしながら羊の番をしていた羊飼いが感じた寒さ。また、突然天使に声をかけられ導かれた喜びは、どれほど大きなものだったでしょうか。家畜小屋でキリストの誕生を祝った羊飼いたち。お祝いして、小屋を出て浴びる朝日の眩しさに、もしかしたら嬉しくて涙したかもしれません。
私にとって野宿者支援の活動は、人生において「予期せぬ物語」でした。教授に叱られ、躍起になって寿で一晩過ごした、あのクリスマスのような体験から19年経った今も、炊き出しをしているとは思いませんでした。しかしこのYou Tubeをご覧の皆さんお一人お一人にも、そのような「予期せぬ物語」があると思うのです。予期せぬ天使の告知、予期せぬ神の計画、予期せぬ新しい物語。それによって私たちは出会い、つながりあって、生きています。そしてこの「予期せぬ物語」は、いつも自分の思いとはかけ離れたところから始まることを、今日の福音は教えてくれています。
天使はいつも、突然やって来ます。マリアはこの時、ヨセフと婚約しており、結婚の祝いの日を待ち望んでいたことでしょう。しかし、突然やって来た天使のお告げ、「あなたはみごもっている」という知らせがどのような事態をもたらすか。マリアに分からないはずはありません。ヨセフとの結婚は取りやめとなり、ヨセフが告発したならば、マリアは罪を犯した女として処罰を免れない。天使は、マリアに「予期せぬ物語」を携えてやってきました。
どこに喜べる要素があったでしょうか。神によって、一方的に人生を大きく変えられてしまうことを、喜べるはずありません。しかし、考えてみると、私たちのうちに予定通りに物事が進み、最後まで安泰に過ごした人がいるでしょうか。人生は想定外だらけ。思いがけない重荷や、険しい道のりを歩かされるようなこともあるのです。でも神様の御心が告げられるその時、神様は私たちに「心の準備はできていますか」なんて聞いてくれません。一方的に、突然、やって来て、与えられる。マリアに対してもそうでした。そう考えると、マリアに対する天使の働きかけは、私たちの現実と無関係なことではないと思うのです。
マリアはその後も神様からの「予期せぬ物語」に翻弄されました。思いがけない妊娠に、家畜小屋で初めての出産。そして生まれた男の子がヘロデ大王に命を狙われ、一家は避難生活を余儀なくされました。そして、その男の子は無事に大人になるも、神の国を宣べ伝えると言って家を出ていき、その数年後には死刑囚の母として十字架のもとにたたずむことになる。マリアの「予期せぬ物語」は苦難に満ちていました。
しかし、私たちは知っています。彼女は、マリアは、決して不幸な人ではなかった、ということです。予期せぬ妊娠であったとしても、マリアの人生は不幸ではありませんでした。息子が神の国を宣教すると言って家を出て行ってしまっても、マリアの人生は不幸ではありませんでした。息子が十字架にかけられ、その死を見届けることになるも、彼女の人生は不幸ではありませんでした。
「おめでとう、恵まれた方。」と天使が告げるこの言葉は、私たちに大切なことを示しています。それは、苦難があることは、必ずしも不幸を意味しないということです。それでもなお、人は幸福で、喜びのうちに生きることができることを示しています。
なぜなら天使は「主があなたと共におられる。」と告げているからです。
主が共におられるということは、主が私たちの人生を用いてくださるということです。私たちの、この存在を用いてくださる。神が用いてくださるということは、言い換えるならば、私たちの一生が意味を持つということであり、人生が無意味に終わらないことを示しています。だからマリアに対して、天使は「おめでとう」と言えたのです。
マリアは天使に答えて言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」マリアは「主よ、どうぞ、わたしを使ってください!」と言って、自分の体ごと、自分の人生をまるごと差し出しました。私たちも「神様、どうぞ用いてください」と言って自分自身を体ごと差し出し、生きていくものでありたいと願います。その先に、「予期せぬ物語」が決して無意味には終わらない、主が共におられる人生があるからです。







