雨音が聞こえるだけだった。3月11日より東日本大震災を思いつつ、3日間、富来伝道所、羽咋教会、七尾教会、輪島教会、北陸学院の順に問安した。冒頭の様子は輪島の朝市。静けさの中で、共に歩く教団関係者の様々な思いは祈りによってこれからも一つとされるだろう。
射祷とは短い祈りで文字通り矢を射るように祈るもの。「主よ、憐れんでください」とか「主よ」の一言にも神さまに依り頼む深い思いが込められる。
以前お仕えした教会でどうしても献金の祈りが苦手だという方がいて、教会学校の子どもにもそうしたように聖句の書かれた栞の裏に祈りの言葉を書いてそれを読んでもらったことがある。公の祈りと私的な祈りに表現の違いがあるとすれば、他人には聞かせられないけれど、思いのままに神さまに叫ぶような時もあるだろう。実際(神さま、これはどういうことですかね?)と家で祈ったこともある。
人が亡くなる。日常が断たれる。「主よ」とも言えない溜息だけが出る日もあるかもしれない。
それでも吐き出した息に込められた何かを、主なる神さまは余すところなくすくい取って持ち帰ってくださる。嘆きは地に捨てられることなく、聞きあげられる。その時点で既に救われていることを信じて、雨音に紛れる祈りを生きる息とされたい。
(教団総幹事 網中彰子)