主の賛歌-イエスこそ私たちの光
ヨハネによる福音書1章1〜4節
上星川教会牧師
細井 茂徳
アドベント、クリスマスを待ち望む4週間が始まります。教会ではこの期間、神の御子がこの世界に来られたクリスマスの意味を厳かに思い巡らし心躍らせながら過ごすことにつとめます。讃美歌を高らかに歌い、喜びを表して過ごすのです。
ところが、今尚コロナ感染対策で讃美歌を歌えずに礼拝を続けている教会もあります。聖歌隊による合唱も自粛し、未だ大声で賛美することが憚られる状況にあります。それと共に、以前と比べ、教会での交わりが希薄になったと言われます。そのような中で過ごすこれからの4週間、私たちはどのような心持ちで過ごすべきなのでしょうか。
ロゴス賛歌
聖書には四つの福音書があり、それぞれユニークな視点からクリスマスを描いて見せています。中でもヨハネによる福音書は、天地が創造される前からおられたキリストという独自のクリスマスをしたためています。
日本語訳聖書では分かりづらいのですが、原語では冒頭の箇所(1・1〜18)がリズミカルな書き方がなされています。元々ここは讃美歌であったのではないかと考えられています。ヨハネは当時の教会で歌われていた讃美歌を一つの資料としてこの箇所を記したと考える学者もいるのです。讃美歌は信仰の告白でもありますから、ここにヨハネの教会の信仰告白が表された賛美が記されている、そうとも読めるのです。
日本語訳では「葉」を取って、漢字一文字で「言(ことば)」と読ませる「ロゴス」について告白されています。そうしたことからこの箇所を「ロゴス賛歌」と呼ぶことがあります。賛歌なわけですから、ここは喜びに満ちた人の賛美が記されているのです。読んだ者もまた喜びに満たされる、そのような箇所として親しまれているのです。
初めに言があった
初めに言があった。
著者のヨハネは、聖書の一番最初、創世記1章1節「初めに、神は天地を創造された」、この書き出しを意識して福音書を書いたのでしょう。ユダヤ人であれば、「初めに」と聞けば自ずと「神は天と地とを創造された」と続くものを、ヨハネによる福音書はそうせずに、「初めに」創造が起こったのではなく「言があった」と続けます。つまり、言(ロゴス)は「神が天地を創造」なされる前から、既に存在していたと証しするのです。この地上に人として生まれたイエス・キリストは、実は、天地が創造される前から先在されたお方なのだというのです。それが「初めに言があった」で意味していることなのでしょう。
続いてヨハネは、記します。
言は神と共にあった。
「共に」と訳された言葉、これは原語のギリシャ語では「プロス」という前置詞で、ただ横に並んであるというよりも、神「に向かって」という動きと交流を表す言葉に読めます。「言」と神が深い交わりの中にあったということを表している。つまり「言」は、単独者というのではなく、相手を求め、別な人格を必要とするということです。
また「言」は、神に向って共にあるということですから、父なる神に対して、子なるキリストが相対している、向き合っている、お互いに人格関係を持ち合っているということです。これが「共にあった」という意味なのでしょう。
ヨハネにおけるクリスマスは続きます。
万物は言によって成った
万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。
ここでヨハネは、ただ単に創世記に描かれている創造物語を言い直して語っているのではありません。万物は初めに神と共にあった「言」によって造られ、その言と神との愛の交わりの中で、創造の御業が行われたのだと言い表しているのです。
神はロゴスを媒介することによって全てのものをお造りになられました。それは他ならぬ「私たちも」ということで、この「私」もロゴスであるキリストによって造られたのです。この世界は、全てが言である神、御子によって創造され、その後も生成され保たれ完成へと向かっているのだといいます。
言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。
私が存在しているというのと私が生き生きとして生きているのとは違うように、ロゴスであるキリストの命があって、この「命」こそ「人の光」であるのです。暗がりの中で一条の光が射し込む時、人はその光を目当てに歩むものでしょう。そのように「人の光」というのは、それを目指してそこへ向かって生き生きと生きるということを描写しています。
私たちの世界がたとえ、様々な天災や人災に見舞われ、暗闇に覆われてしまっていたとしても、私たちの心が憎しみや妬み、恨み、不満といった真っ暗な闇に染まっていたとしても、そこに点される光としてキリストは来られた。私たちを支え、保ち、完成へと導くために。正に「ロゴス賛歌」と呼ばれるにふさわしく、私たちを喜びで満たしてくれるために来られたのだと、そう歌っているのです。
神の言は空しく戻らない
イザヤ書55章10〜11節には、次のように記されています。
雨や雪は、天から降れば天に戻ることなく 必ず地を潤し、ものを生えさせ、芽を出させ 種を蒔く者に種を、食べる者に糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も 空しく私のもとに戻ることはない。必ず、私の望むことをなし 私が託したことを成し遂げる。
クリスマスの真意をよく捉えている御言葉だと思います。ロゴスなるイエス、神の御子イエス・キリストは何ゆえに、この世界にお出でになられたのか。そして、その尊い犠牲によって、私たちの中に、何を成し遂げ、どんなことを築き上げようとしておられるのか。「言」なるキリストは、神と人、人と人との本当の交わりを回復するためにお出でになられました。そして、今も「神の言」として私たちに働いて下さり、私たちを礼拝に導いて、私たちに救いの出来事を起そうとしておられるのです。そして、私たちを造り替えようとしておられるのです。神と人、人と人とが一つとなって救われるという一大ビジョンを成し遂げるために、あの十字架で、自らを「屠られた小羊」とされたのです。
この方による救いを厳かに精一杯に楽しみ喜ぶクリスマスを、ご一緒に迎えさせていただきたいと願います。
(上星川教会牧師)