キリストの体なる教会の形成
雲然俊美議長
〈神の召しとして〉
5期12年間教団書記の務めを担わせていただき、ようやくその役割を終えると思っていたところ、本当に思いがけないことに議長に選出されました。これはもはや、さらなる神の召しであると覚悟を決めた次第です。
〈キリストの体なる教会〉
教団の教師として立てられて39年目となりますが、この間、教会に仕える者として変わらずに祈り、励んでいることは、キリストの体なる教会の形成ということです。特に、新たに設立された教会(最初は伝道所)での働きを担わせていただく中で、旧教派の伝統を持たない日本基督教団の教会として、教団信仰告白を告白し、教憲・教規の規定に則って、キリストの体なる教会を形成することに務めています。
そして、各個教会においてはもちろんのこと、全体教会である日本基督教団においても、キリストの体なる教会の形成こそが、これまでも、またこれからも変わることなく取り組み続けて行く課題だと思っています。
例えば、教会形成において役員会での審議が重要であるように、常議員会において、教団の活動全般について充実した審議がなされることを願っています。また、教団の各委員会の取り組みにおいても、全体教会としての教団形成に資する活動がなされることを願っています。
〈教団の豊かさ〉
伝道者として私が立たせていただいている場は、いわゆる地方の小規模教会です。長く続くコロナ禍のために、いずこの教会・伝道所も困難の中にあります。教会の教勢や財政の事情のために牧師を招聘することができず、存続の危機にある教会・伝道所も多くあります。そこでは、多くの牧師が代務や兼務をして、教会の活動を維持しています。
そのような、それぞれの地に神が立ててくださった教会の灯りをともし続けること、そのために教会および教師たち相互の祈りと支援の連携がなされ、一つ一つの教会・伝道所が福音の喜びに満たされて活動を続けて行くことこそが教団の豊かさであると思います。
教団がこれからも、「人に惜しまず施す豊かさ」(Ⅱコリント8・2)に生きるキリストの体なる教会として形成されることを願っています。
(秋田桜教会牧師)
主から遣わされているとの信仰から
藤盛勇紀副議長
教団総会議場で配布された『速報№2』を見ると、「藤盛新副議長は…『当惑をしている。主の御心と信じ、お受けしたい。…』と述べた」とあります。実際、その時の心中は「困ったな。長老会や信徒の皆がどう受け止めるだろうか」という思いがグルグル回っていました。「雲然議長は12年間の三役のお働きがあり、十分な経験をお持ちである。議長と同じ方向でしっかりとお支えし、教団に仕えたい」と挨拶で述べた通り、まずは議長を支えられるよう努めます。
先日、今総会期第1回目の三役会を行い、まずは議長から今期の基本的な方針案が示され、つづいて、常議員会や各委員会での課題を確認・共有しました。諸課題を改めて示されると、この大きな山はいったいどう動かし得るのかと、途方に暮れそうな思いがしました。
しかし、まずは「キリストの体なる教会としての教団形成」の祈りを共有するところから始めようとの議長から示された方針のように、その祈りをもって、諸教会・伝道所・諸施設の伝道の取り組みにお仕えしたいと思います。
実は、私が「困った」と思っていたことの一つには、私が仕える富士見町教会で、中長期伝道計画の策定に取りかかるために長老会で策定準備委員会を設置したばりだったことがあります。しかも、言い出したのは私。長老会でもまだ詳細は明らかにしていませんが、策定準備委員会では、開拓伝道の必然性・必要性の共通理解を持つところから始めています。
日本の伝道は、まだ緒にも就いていない状況です。主イエスは99匹の羊を主の野原に残して、迷子の1匹をどこまでも探し求められますが、日本では99匹、いや百匹すべてが迷ったまま。主の民は多い(使徒18・10)けれども、飼い主のいない羊のようなありさまです。この民を深く愛する主の憐れみに触れられ、主から遣わされているとの信仰から、どのような働きも始めたいと願っています。
日本基督教団が主の憐れみと熱い思いを少しでも具体的に現して行けるように、私も自分が遣わされた場と務めにおいて、微力を尽くしてまいります。
(富士見町教会牧師)
御言葉によって力を与えられて
黒田若雄書記
「書記としての抱負を」との原稿依頼を受け、大変戸惑っている。議長からの推薦を断る勇気がなかったということが、正直な思いである。とても抱負を持てるような状態にはない。目の前の一つ一つの務めを誠実に担う以外ないと思っている。ただ、与えられた機会なので、抱負とはならないが、今心にあることを二つ記してみたい。
一つは、四国教区の教会で仕えて受け止めさせられたことである。私は、高知分区の2教会で仕え、今年32年目になる。四国は、人口減少が日本で最も速く進行している。しかし、各教会は決して下を向いているわけではなく、神の支えを受け止めつつ、前に向かい進もうとしている。四国教区も、各教会が生き生きと伝道していくために何ができるか、そのことを目指して歩んできた。四国教区で歩まされた自分が、教団の働きを担うことになったのは、四国教区の一つ一つの教会の祈りや願いを大切に、働きを担うことが求められているのではないかと思わされている。
そして、もう一つは、働きを担う自分の足場についてである。総会直後の高知教会の礼拝で、説教の任を負いながら、強く思わされたことがあった。それは、自分の本務は礼拝説教の任を負うこととの思いである。それは、教団の働きは二次的に対応するという意味では勿論ない。私は、牧師として歩む中で。何度も厳しい状況を歩まされてきた。その度に、神は御言葉によって力を与え続けてくださった。「日曜日ごとに教会は新しく生まれる」との神学者の言葉のように、神は、御言葉を通し、教会を、それ以上に私を新しくし続けてくださった。そうして、ここまで歩まされてきた。書記の重責を自力で担うことは不可能との自覚は、強く持っている。だからこそ、神から新しい力を受け続けていく以外ない。そのために、働きの足場が、礼拝説教の任を負うことにこそあることをしっかり見つめつつ、書記の働きを担わせていただきたいと思っている。
長年担われた前書記のようにはとても歩めないと思う。忍耐を持って見守っていただければと願う。そして、この貧しき器のためにお祈りいただければ、幸いである。
(高知教会牧師)