「変わらない確かさ」
聖書個所:「神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。 だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」
ヘブライ人への手紙第13章5b~8節
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日本基督教団札幌教会
牧師 小林克哉
日本基督教団札幌教会牧師の小林克哉です。日本基督教団のホームページ、YouTubeチャンネルにお越しくださりありがとうございます。
みなさんは、聖書の言葉をお読みになられたことはおありでしょうか。聖書の中に次のように記されています。
神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」
わたしが聖書に最初に真剣に聞いたのは中学3年生のときでした。家の近くにある教会に通うようになったからです。聖書の言葉に触れ、自分が偶然生まれてきて生きているのではなく、天地万物を造られた神さまが、わたしを造り、命を与え、生かしていてくださる存在であることを知りました。そしてその神さまのことを気付かず知らず背を向けてしまっている罪があることも知りました。創り主である神を愛し、神に共に生よと与えてくださっている隣人を愛するために生きている、その命を生き得てない、そこに罪があることも知りました。そして何よりも、その罪のために、その罪を赦すためにイエス・キリストが身代わりとなって十字架で死んでくださったことを知ったのです。その深いその強い愛を知り、深く感動したのでした。
牧師先生を通して語られるメッセージに深く感動し、深く慰められ、励まされ勇気づけられたのを覚えています。「わたしたちのために十字架で死んで復活してくださったイエスさまが、わたしたちの神さまなんだから何があっても大丈夫。」わたしはイエス・キリストを信じ、洗礼を受けキリスト者となました。そしてその後牧師とさせていただいたのです。
牧師になってからもいろいろな出会い経験をさせていただきました。ある時、こんな方が教会に来られました。家庭の破綻を経験し背負いきれない過去を背負い自分を責めている方でした。わたしはその方にこう申し上げました。「イエス・キリストの十字架によってあなたの罪は赦されています。」罪の赦しの宣言を聞き、その方は神さまによって新しい人生を始めたのです。その出来事を見せていただきました。
また、こんなこともありました。末期がんに侵された方がありました。希望を失い、キリスト者である妻に寄り添われて教会を訪ねて来られました。イエス・キリストを知りました。罪の赦しと永遠の命を知りました。その最期は実に平安のうちに過ごすものでした。そして復活と永遠の命の希望の内に召されていかれたのです。
生きることに何の意味も見いだせず、死んだ方がよいのでないかと闇の中に捕らわれていた若者がいました。教会に来てイエスさまのことを知りました。神さまの愛、その神さまの愛を知って、生きることを知ったのです。光を見出し闇から立ち上がり人生を歩き出していきました。
わたし自身、欠けや弱さに満ち、罪を抱えて生きている者でしかありません。何にもできない。何もしてあげられない。人を救うことなどできません。しかしそのような出会いや経験を通し、「本当に主は生きておられる。神さまは本当にすごい」と思わされ続けてきたのです。
聖書、ヘブライ人への手紙第13章5節から8節にこう記されています。
神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
世は移ろい、人は変わるものです。しかしイエス・キリストは変わらない。変わらない確かなお方がおられます。
牧師としての経験の一つとして、わたしは刑務所教誨師のお働きをさせていただいたことがあります。刑務所で受刑者の方と面談するのです。人生をやり直したい、牧師さんと話をしてみたい、聖書のことを教えてほしい。そんな希望を持つ方とお会いする働きです。一般的に、犯罪をおかし、家族に縁を切られている人も珍しくありませんでした。ある日、何度目かにお会いする方がありました。「○○さん、いかがでしたか。あなたのことを覚えて祈っていましたよ。」するとこう言われるのです。「先生、先生だけなんですよ。自分のことを覚えてくれている人は先生だけなんですよ。」わたしがその方に伝えたのは、わたしではないということです。わたしがそうするのは神がイエス・キリストによって、あなたのことを決して忘れることも見放すこともないから。そのことを証しするため。決して見捨てないイエス・キリストの神を知ることが、あなたのこれからの人生の支えとなり、人生の軸となるのです。わたしはその方に一生付き添ってあげることはできません。しかし、決して見放すことも見捨てることもない神がおられるのです。
先ほどお読みした聖書の御言葉は、牢に捕らわれ周りの人が離れていく現実、夫や妻、家族に裏切られる辛さ、お金だけは確かだと思いながら、それも役に立たなくなる時があるのだと語り、そしてこう言うのです。
神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。
神は決して見捨てない。変わらない確かなものがある。
だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」・・・・イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
世は変わり、人は移ろいます。しかし、変わらない確かなものがあるのです。わたしは聖書を通してそのことを知り、教会を通して信じる幸いを与えられました。みなさんにも、この確かさに生きる幸いを知っていただきたいと心から願っています。
みなさんのこれからの人生に、神さまの恵みと平安がありますようお祈り申し上げます。神さまの祝福がありますように。アーメン!