先頭を歩まれるイエス-舟旅とガダラ人地方-
マタイによる福音書8章23〜34節
田村博 (調布教会牧師)
イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。(マタイ8・23〜24a節)
イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。(マタイ8・28)
新しい一歩へ
春、新年度に向けて、各教会はそれぞれの準備の時を迎えていることでしょう。一年を振り返り、主の恵みを数えつつも課題をピックアップして、次に何に取り組むべきなのか、わたしたちは検討を積み重ねます。それらは必要な作業であり大切なことではありますが、少しばかり勇気を出してそれらを横に置いておき、御言葉から、舟に乗って異邦人の地に向かわれる主イエスと弟子たちに目を向けてみたいと思います。
この主イエスと弟子たちの舟による移動と、墓場で暮らす者にとりついていた悪霊が豚に移り、その豚が湖で溺死するという一連の話は、共観福音書すべてに記されています。しかし細かいところでは微妙に異なっています。マタイは、マルコ、ルカと異なり主イエスが弟子たちに先立って舟に乗り込まれ、上陸したことを強調しているのです。
未だ出会ったことのない人々の住む地に主イエス自ら先立って進みゆかれたということは、わたしたちにとって大きな励ましです。
それぞれの教会の新年度においても、わたしたちの思いに先立って、主イエスご自身が大切な一歩を踏み出してくださろうとしているのです。
激しい嵐と狂暴な二人
その舟は追い風を受けてスムーズに目的地に着いたとは記されていません。まもなく「激しい嵐」によって揺さぶられました。「なぜこのようなタイミングで出発するように命じたのか? 本当にこの方を信じていいのだろうか?」、「もう嫌だ。引き返そう!」等々。口にこそしなかったものの、弟子たちの感情は爆発しそうになっていたかもしれません。
また、舟が到着した地で彼らを待ち構えていたのは、笑顔の住民ではなく、悪霊に取りつかれた狂暴な二人の者たちでした。「だれもその辺りの道を通れないほど」とあります。弟子たちも関わり合いになることを避け、一刻も早く無難にそこを通り過ぎたいと思ったかもしれません。
教会が新しい歩みを踏み出した時、このような「大きな揺さぶり」、「避けて通りたくなる問題」が降りかかってくることが起こりえます。主イエスの御声に従って歩み出したにもかかわらず…です。
神の御業のあらわれ
そのような「大きな揺さぶり」に遭遇した時、わたしたちが取るべき態度とは「風と湖を叱る」ことではありません。時にわたしたちは、問題の源と思われるところに敵意を集中させ、憎しみをぶつけることによって問題が解決するかのように思い込み、そうしたいという衝動に駆られます。しかしそこには解決はありません。わたしたちには、主イエスを差し置いて「神」のように振る舞うことは許されていないのです。
主イエスこそ、風や湖さえも従わせることのお出来になる唯一のお方です。そして、主イエスは、わたしたちが湖(引きずり込もうとする深淵・闇)に飲み込まれるのを決してお許しになりません。わたしたちがすべきこととは、そのお方が、そばに(同じ舟に)いてくださることが想像をはるかに超えたすばらしいことだと深く認識することです。
かつてわたしは、主イエスに逆らい、「舟」から湖に自ら飛び込み、自分の力でどこでも泳いでたどり着けると思い込んでいました。次第に体が重くなっていることにも気づきませんでした。気づいた時には、湖の底のように光の届かない闇の中でした。しかし、そのようなわたしをも、主イエスは引きずり出して救ってくださったのです。主イエスにできないことはありません。
また主イエスこそ、誰もが関わり合いになりたくないと、避けて足早に遠ざかって行くような課題に対して、唯一、立ち止まって、正面から向き合ってくださるお方です。
悪霊は、自らの力が主イエスにまったくかなわないことを知っています。悪霊の勝利はどんなに強がっても一時的であり、主イエスの永遠の勝利の前に立ち向かうことはできないのです。
この場面でも主イエスは、悪霊の支配からの解放と救いをもたらしました。
知らないということ
嵐が静まって凪となった様子を見て弟子たちは「いったい、この方はどういう方なのだろう」と驚いて言いました。それは「あなたこそ神の子です」のような力強い信仰告白ではありません。むしろ、自分の理解をはるかに超えたお方を前にした正直な告白です。自分には知らないことがたくさんある、それを認めることは実は大切です。
この聖書箇所に続いていたに違いないある出来事を、マタイは読者に知らせないという選択をしています。マルコ、ルカは、悪霊を追い出してもらった者がその出来事をその地でさかんに人々に伝えたことを記していますが、マタイはそれを記していないのです。主イエスのもたらす救いがどのように実を結び、伝えられ広がってゆくのか、その全容を到底知ることのできないわたしたちです。そのすべてを知ることができるのは、主が再び来られる「その時」なのでしょう。
わたしたちが知らないことはたくさんあります。なぜ豚二千頭の命が犠牲にならなければならなかったのか、それもわからないことです。今年に入ってからも、地球温暖化の影響からオーストラリアで森林火災が発生し、多くのカンガルーやコアラが犠牲になりました。確かに言えることは、その命の犠牲は、創造主にとって大きな激しい痛みだということです。
主イエスは、その犠牲と比べものにならないほどの大きな痛みを一身に背負ってくださいました。責任を取ろうとしない人々を責められるのではなく、ただお一人で全責任を担われたのです。
このお方が、わたしたちの先頭に立って歩んでくださるのです。わたしたちは何も恐れる必要などありません。(調布教会牧師)