父は現役の教団の牧師である。大きな病が与えられてから約6年が経過し、今年度初めに牧師としての最前線から離れることになった。父の決断の前で涙を流した自分に、「信仰があるなら死を恐れる必要はない。永遠の命が与えられているから」と、父は言った。
教会育ちゆえ、信仰の世界があまりにも当たり前になっていた自分が初めて真剣に祈ったのは高校1年。ネットゲームで知り合った友人が、後遺症が残るほどの大けがをした時だった。しかし、それが信仰告白へと導いたかと言えばそうではなかった。
救いを律法主義的に捉えていた自分にとって、信仰者の道はどう考えても歩むことができない道だった。右の頬を打たれれば左の頬を出す、もちろんもっと深い意味があると思いながらも、それは無理だというのが信仰告白前の自分だった。
しかしある時、父親以外の牧師の「信仰義認」を語る説教で目が開かれた。神は人間の弱さをご存じであられ、それでもなお神は人間に信じることを求めておられるとの言葉に心が軽くなった。当時、部活動の関係で、他教会の夕礼拝に出席していた。父親への小さな反抗だったかもしれないが、それが信仰告白のきっかけとなるのだから、神は不思議である。
早速父に信仰告白の志を伝えたが、その直後に父の病が明らかになった。信仰告白の準備会は予定より遅れたが、しかし、大学1年のイースターに、信仰告白式を執り行うことができた。父の病のことで、信仰告白をやめようなどとは思わなかった。
父の状況を思うと心に揺れがないわけではないが、最近、もっと聖書を読みたいと思うようになった。耳慣れた聖書の言葉が、新鮮に聴こえる。語ろうと思うのはまだ先か。
1995年東京都出身、新津田沼教会会員