今年の神学校の卒業式の祝辞で「信徒とは闘わない、信徒は裁かない、信徒には負けても構わない、礼拝で慰められ、礼拝で整えられる、説教に集中すること」と語った。このことを私も肝に銘じているので越谷教会では温厚だ。
しかし、教会で「私は温厚だ」と叫んでも誰も信じてくれないのが悔しい。
教団の仕事で3月末、清里で開催される「宣教師会議」に出席するため高速道路を走っていたら、副牧師から電話が入った。ハンズフリーで車の中で話すことができる。「次週の説教予告を週報でするので、至急聖書の箇所と説教題を知らせて欲しい」とのことだった。
次のドライブインに入り、聖書を出して読んだ。ローマ書の連続説教で、説教題は、その聖書の箇所から決めることにしている。説教題を9章33節の御言葉から「つまずきの石」と決めて副牧師に電話した。
聖書箇所を伝えたのち、私「説教題は『つまずきの石』だよ」。副牧師「えっ、えっ、何?」。私「『つまずきの石』だよ」。副牧師「えっ、えっ、つまずきの橋」。私「橋じゃあないよ、石橋の石だよ」。副牧師「あー、つまずきの石橋か」。私「……」。
私は決心した。「副牧師とは闘わない。副牧師を裁かない。副牧師には負けても構わない」と。「躓きの石橋」にならないために。
(教団総会議長 石橋秀雄)