1957年、沖縄戦から12年を経て沖縄キリスト教学院(沖縄キリスト教短期大学・沖縄キリスト教学院大学)は、戦争の悲惨さを体験した沖縄キリスト者たちの、平和な島を作る担い手を輩出したいという願いから誕生した。沖縄では琉球大学に次いで2番目に創設された大学である。
いわゆる外国ミッションボードによって建てられた大学ではない。しかし、その創設のために尽力した二人の宣教師なくして、この学院の誕生は難しかったであろう。一人はウオルター ・W・クライダー(Walter W. Krider)宣教師(米国メソジスト教会派遣)、一人は前田伊都子宣教師(米ディサイプルチャーチ派遣)である。初代理事長・学長の仲里朝章牧師が学院の精神的な指導者であったが、クライダー宣教師は財政面を支え、前田宣教師は教務を担当する形で学院は出発することができた。
クライダー宣教師は、1920年ボストン大学神学大学院でM.Aを取得、翌年来日した。東京には22年まで、長崎で35年まで宣教活動をおこなった。一時帰国し材木商として財を成したが、1955年に沖縄で宣教師としての活動を再開する。1960年まで沖縄の伝道と沖縄キリスト教学院の設立・維持のために多大な貢献をした。特に経済的な面で際立っている。
沖縄キリスト教学院は、設立当初沖縄キリスト教団(現日本基督教団)首里教会の会堂を校舎としたが、その後、首里城公園の一角に新校舎を建設した(現在は西原町に移転)。その校舎建設のために、クライダー宣教師は材木商として貯めてきた1万ドルを捧げたのであった。当時の沖縄キリスト教団の経済力では、学校を創設することは不可能であったが、クライダー宣教師はIBC(Inter Board Committee、内外協力会)を通じてアメリカの諸教会に新校舎建設のための献金を呼びかけた。その結果、合同メソジスト教会、チャーチ・オブ・クライスト、ユナイテッドチャーチの3教会から1万ドルずつ、計3万ドルの援助を受けることができた。
師は帰国後、1965年に逝去した。
前田伊都子宣教師は、1918年東京生まれの日本人であった。仏教色の濃い家庭に育ったが、東京の聖学院でキリスト者となり、恩師のジェッシー・トラウト(Jessie Trout)の感化をうけて献身する。卒業後、聖学院と恵泉女学園で教鞭をとった後に渡米し、イースタン・メノナイト・カレッジ(College of the Bible)で修学した後、米ディサイプル教会の宣教師に任命されたのである。
1956年に沖縄に派遣され、伝道と共に沖縄キリスト教学院設立の仕事に従事することになる。自身が聖学院で受けた高度な教育を学生たちに提供するために奮闘した。カリキュラムの作成、教育を担当する教員の雇用等、その教育的功績は大きい。教室以外でも、学生たちの行儀や立ち振る舞い、エチケットや言葉遣いにいたるまで気を配り、就職の面接試験にも同行するほど熱心であった。学生たちは「ニコガミ先生」と呼んだ。ニコニコしながらもガミガミと叱るということであろう。学生たちは、その愛と厳しさで成長したと言う。
その他、教会説教、婦人会の指導に情熱を傾けた。沖縄宣教の後、ブラジルにも派遣され2007年に米国で逝去した。
クライダー、前田両宣教師の大きな教育的功績と共に考えさせられるのは、米軍基地との関係である。彼らが活動した50、60年代は、土地収奪と基地拡張の時代でもあった。当時の教え子たちから、二人が「米軍のベース(基地)に寄りかかっていた」と指摘の声もある。学校整備や学生たちへの奨学金についても、学生たちを米軍のチャペルに連れて行って献金を要請することもあったと言う。
キリスト教教育・宣教と基地の関係の問題は、その時代から沖縄で問われ続けている。 (Kyodan Newsletterより)