かつて、日野原重明先生の薫陶を受け、聖路加国際病院の看護師、保健師として、先生の信仰と共に、公衆衛生の先駆けとなった。「それは、厳しかったです」と中川さん。日野原先生は、「明日までにやっておきなさい」と、期日までにその成果をきっちりと出さなければ許されない先生だった。それは、ご自身の信仰からだったと中川さん。神さまから託された人の命と、その仕事の意味と重さを知っておられたからと。
中川さんにとってのキリスト教のルーツは、日本基督教団中条教会を設立した祖父に遡る。さらに、信仰者の養子となり、青年期まで過ごした、前橋の共愛学園での寮生活にある。共愛学園での生活は礼拝に始まって、礼拝で終わった。当時、戦争中であり、空襲警報が鳴り響く中、焼夷弾をかいくぐり、下級生の手を引いて逃げた。帰ってきたら、学校が丸焼けになっていた。お互いに、生きて帰れるかわからない生命のはかなさを感じ、友人たちと13歳の時、洗礼を受けた。洗礼を授けてくれた尊敬する牧師であり学校長の周先生は台湾国籍でもあり、幾度も憲兵に捕えられ、おそらく拷問も受けられたのではないか。
そんな経験を経て聖路加国際病院で働き、日野原重明先生から、ボランティアとして医療を通して人々に仕える心を学んだ。退職後、その経験と心がやがて、目の不自由な方々に点字で仕え、「特別養護老人ホーム」で高齢の方々と共に歩む奉仕活動へと導かれた。
最後に「実は、幼い頃、養子として育てられ、いつも周囲から、もらい子だから…」と。悔しい感情が大人になっても抜けきれなかったと言う。そんなある時、牧師から真剣に祈ってみなさいと勧められ、祈り続けたら、そんな感情と思いが消えてしまったと言う。「全ては、聖霊の導きによるのではないでしょうか」と、中川さんは、爽やかに、そう振り返る。
新発田教会員。1930年生まれ。点字の文書伝道、手作り製本なども行う。