見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして/その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし/わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。そこには、もはや若死にする者も/年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ/百歳に達しない者は呪われた者とされる。彼らは家を建てて住み/ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく/彼らが植えたものを/他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり/わたしに選ばれた者らは/彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく/生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に/主に祝福された者の一族となる。 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え/まだ語りかけている間に、聞き届ける。狼と小羊は共に草をはみ/獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし/わたしの聖なる山のどこにおいても/害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。《イザヤ書65章17~25節》
崩れに沈む民—神の怒り
2018年の新しい歩みが始まった。
新しい年に「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」(イザヤ書65・17)との御言葉が示された。崩れて行く、この崩れに沈む民に、希望の言葉が響きわたる。
「わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」(同18節)。
新しい天と地、そして、人間の創造の主の言葉が示されている。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1・31)。神が造られた極めて良い世界は、崩され続けてきた。
旧約聖書の示す主の民の歴史は、「神が喜び楽しむ民」ではなく、最後には「主の怒りが燃え上がる」罪の歴史を歩んでしまう。
出エジプトの民を主は「聖なる神の民」として選ばれ、「わたしの宝」と神は喜び、愛し支えられた。
しかし、聖なる民の歴史は、神への信仰が崩れ続け、最後には神の怒りが燃え上がる歴史を重ねて来た。
神の怒りが燃え上がる崩れの極限で神の愛が燃え上がり、新しい世界と新しい人間の創造の御業が示される。
崩れの奥底に横たわる主イエスの死—福音の純化
2017年11月23日、日本福音ルーテル教会と日本カトリック司教協議会共同開催の宗教改革500周年記念礼拝とシンポジウムがカトリック浦上教会で開催され、招待を受けて参加し、その礼拝に感動し、協議会の発題に感動した。
特に「『長崎の声』—苦難の歴史を踏まえて」として、橋本勲カトリック中町教会主任司祭の言葉に魅せられ深く教えられた。プロテスタントが「福音のみ」ならば、カトリックは「福音化」だ。「信仰の一番搾り」をと、ビールの銘柄を連想させながらユーモアたっぷりに語った。
「ルターも『聖書のみ』という主張をもって贖宥状(免罪符)など、あまりに人工添加物が付き過ぎた教会の現状を眺め、イエス・キリストへの純化を目指したものと思われる。これらの言葉を頼りに、崩れすなわち福音化の実態に迫ってみたい。それがすなわち平和づくりにつながる」と述べ、浦上崩れの話をした。「崩れの時は福音の純化の時」として語られる。
カトリックで崩れと言えば、「浦上四番崩れ」として知られている。浦上村はキリシタンの村だ。浦上キリシタンは3度の弾圧を受ける。弾圧は「浦上一番崩れ、二番崩れ、三番崩れ」と呼ばれる。そして「四番崩れ」は特別に強調されている。崩れが福音の純化をもたらしたからだ。三番崩れまでは信仰を隠していた。しかし、浦上四番崩れにおいては信仰を鮮明にして檀家寺から離れて、独自に葬儀をしたり、キリスト者であることを隠さなくなった。それで、激しい弾圧があり、キリスト者は「殉教するか、信仰を隠して隠れキリシタンとして生きるか、棄教するか」の決断を迫られ多数の殉教者が出た。
そして、長崎原爆を「浦上五番崩れ」として話された。
崩れの極限で、神の愛が燃え上がる
作家永見津平は長崎原爆を扱った小説のタイトルを「長崎五番崩れ」とした。永見はキリスト者ではない。長崎原爆はキリスト教の視点で見なければ理解できないと言った。橋本司祭は「異論もあるかもしれないが」と断りながら、「原爆は、キリシタン村である浦上に落とされた。浦上教会は原爆投下地点から500メートルのところにあり破壊された。凄まじい破壊を五番崩れとして崩れの極限として見つめるようになった。『崩れ』の究極的奥底にイエス・キリストの死をイメージし、死、この極限の崩れは、復活の希望へとつながる。キリスト、この一点へと搾り信仰を純化する。原爆の凄まじさは、社会の崩れをも意味し、崩れの極限においてキリストの十字架が示され、十字架は復活の希望を指し示す。原爆が爆発した罪の極限で、キリストの十字架の愛が爆発し、世界に和解と平和と希望が指し示された」と語った。
原爆は崩れの極限であり、人間の罪の極限であり、社会の崩れの極限である。神の怒りが燃え上がるところで、キリストの十字架と復活によって神の愛が燃え上がって、「新しい天と地、そして新しい人間」が創造される。「神が喜び楽しんでくださる人」の創造だ。教会の礼拝は「新しく創造された天地」につながる。新しい天と地の永遠の命をいただいて、礼拝を捧げる主の民を「主は喜び楽しんでくださる。だから。喜び踊れ」との御言葉が新しい年に響く。
「宗教改革500年共同記念集会」では、ルターの「この世を動かす力は希望である」と示されていた。主イエスの十字架と復活、ただ一点に信仰が純化されて真の希望を指し示す伝道の業に取り組みたい。 (第40教団総会議長・越谷教会牧師)