指導者不足
佐々木勝彦
(東北学院大学文学部キリスト教学科教授)
これまで「キリスト教教育」は決して神学の主要部門ではなかったし、今もそうである。
しかし最近、その雰囲気が少しずつ変わり始めている。所謂「神学校・神学部」が「キリスト教教育」の専門教員を配置するようになってきた。
その理由のひとつは、教員資格審査の段階で文部科学省が「専門的な教育学」の訓練を受けていることを条件にするようになったからである。教員免許状取得資格を与えるからには、神学を学んだ者が片手間にやれる仕事ではないとの主張である。
この要求はやがて「神学校・神学部」にとって大きな負担になると思われる。
「専門的な教育学の訓練を受け、しかも神学の訓練を受けた者」と言われても、実際にはそう簡単に見つからない。少なくとも二つの専門教育を受けるには、学部だけで最低六年間の教育が必要であり、大学院での教育も不可欠になる。さらに難しいのは、仮にそのような有資格者が誕生したとしても、就職の機会がほとんどないため、その次の後継者を期待できないことである。
キリスト教教育の担当者がいなくなったらどうなるのか。その答えは明らかである。
「指導者不足」には、このような専門家の不足と共に、もうひとつの側面がある。それは現場の多様なニーズに応えきれないという意味での不足である。今や「教育」は「学校教育」に限定されず、家庭教育、地域教育、社会教育、平和教育、環境教育、生涯教育、等々、その範囲は限りなく拡大しつつある。それぞれが、固有な専門知識を身につけた指導者を求めている。
このような状況にあって「キリスト教教育」はどこに焦点を当てればよいのだろうか。もちろんすべてに応えることはできず、自らの責任範囲を明確に限定せざるを得ない。
しかしその基本的な学びの段階では、教育全般に対応しうる「基本姿勢」を身につけ、さらに専門知識を習得した後もこの姿勢を保持できるようにする必要がある。
では、具体的にどうすればよいのか。ここから先は指導者の数だけ答えがある。現場が違うからである。
私の現場では、伝道者になろうとする者、教師になろうとする者、社会福祉に関わろうとする者、一般の企業に就職しようとする者が、「共に」学んでいる。
「異なる目標」をもつ者が「キリスト教教育」の名のゆえに集まり、考え、体験と意見を交換しあっている。彼らに共通するテーマは何か。これが常に私に突きつけられている問いである。
「リーダーシップとは何か。」これが今年の研究テーマである。「教師論」から考えてみようというわけである。
社会が複雑になり、専門化すればするほど、むしろ全体に配慮する人間が必要になってくる。だが、個と全体を同時に生きるという厳しい課題に耐えられるひとはいない。しかしそれにもかかわらず、「キリスト教教育」には、そのような人間の出現を待ち望む確かな根拠が与えられている。問題は、その根拠をしっかりと見据えているかどうかである。