「お世話になりました」と言い、九〇歳になる教会員が挨拶をされた。その日の礼拝を最後にシニアハウスに入ると言う。高齢の教会員が多くなり、礼拝出席がままならぬ状況になる。「最近、Aさんを見かけませんね」と教会員が消息を話し合っている。足腰が弱くなったとか、老人ホームに入居したとか、寝たきりになったとか、現実を受け止めざるを得ない。思うことは、礼拝に出席できなくなってしまった皆さんは、それまでは教会を支え、担ってきたのである。今、高齢になって礼拝には出席できない。「最近、お見えになりませんね」と言うとしたら、悲しい現実である。願うことは、高齢となり、朝目覚めては賛美の歌が耳に聞こえ、御言葉にふれる。夕べには感謝のうちに目を閉じる。そういう生活である。
姉は既に天に召されているが、一五年間リュウマチを病んだ。身体のあちこちに骨の補強金具を埋め込み、「せん方つくれどものぞみを失わず」(第二コリント四章八節)と口ずさみながら、日々生かされている感謝をささげた。「今日も一日生かされて感謝」と日記には必ず記すのであった。その姉を常に教会の皆さんが訪ねてくれた。寝たきりの状況にありながらも信仰に生きる喜びを与えられていた。
「お別れではありません。老人ホームに入っても教会員なんですよ。皆さんがお訪ねして、賛美のお交わりがありますから」と言いつつお送りしたのであった。
(教団総会書記 鈴木伸治)