ヨハネの黙示録七章九~一七節
涙をぬぐわれる神 竹内郁夫
・死は別れである
私たちにとって、死とは愛する人との別れです。父、母、兄、弟、姉、妹、祖父、祖母、伯・叔父、伯・叔母、従兄弟・姉妹、恋人、友人、恩師、先輩、後輩などの死には、実に厳しいものがあります。日頃は忘れていた死が身近なものになります。ある人が、「父の死は鋭く、母の死は重い」と語りましたが、実に、「愛する人の死」は鋭くて重く悲しいものです。命と愛を絆にして結ばれた人の死は、悲しみと孤独、孤絶に満ちたものです。生きる力を奪い取っていくものが、愛する人との死別です。
信仰の父アブラハムは、年が満ちて息絶え、天の民に加えられました。天寿を全うしたのですが、別れの悲しみがあったはずです。ダビデ王は、幼い息子が亡くなったとき、大地に横たわり、食を断ちました。別れの痛みに耐えられなかったのです。
私たちは、この悲しみの体験から逃れることはできないのです。避けることのできない出来事です。
では、死は、私たちにとって絶望そのものでしょうか。聖書は、死を無限の虚無とは語ってはいません。死は、永遠の別れではありません。命と愛を絆にして結ばれた交わりを悲しみのもとに切り捨てることはしません。聖書は、必ず、再び会う望みを示しています(一テサロニケ四・一八)。
この出来事から学ぶことには、何があるのでしょうか。極めて大切な学びがあります。そのような死をどのように受け止めたらよいのでしょうか。
ある老婦人が自分の言葉を心に飲みこむようにして語られました。「主の日の礼拝は、いずれ、神さまのみもとに召されたとき、主イエスさまと共に神さまを礼拝するお稽古なのですね」と。死を将来において、主イエスや天に召された人々と共に神さまを礼拝するための出発のときとして受け止めておられたのです。私は、まだ、若輩で、未熟でした。主の日の礼拝をこのように受け止める信仰の余裕などはありませんでした。しかし、礼拝をこのように実に敬虔にしっかりと捉えておられたことには驚嘆の思いを禁じ得ませんでした。真に脱帽の至りです。ヨハネの黙示録七・一一のみ言葉が、彼女にしっかりと受肉して、根付いているのを見ました。
また、このような老婦人もおられました。「先生、死は私たちの最後の関所ですね。その関所を私たちは、主イエスさまと共に渡って行くのですね。だから、私は、安心です」と語られました。この方は、主イエスが十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、祈り叫ばれた言葉を「わたしの神よ、この苦しみの時、わたしと共にいてください」という祈りとして受け止めておられたのです。
私たちが、真実に祈り願うことは、死に直面したとき、愛する人が共にいてくれることです。手をしっかりと握りしめてくれることです。神さまの平安を祈ってくれることです。愛する人が、傍らにいてくれることによって、私たちは死を平安のうちに受け入れることができるのです。平安のうちに別れていくことができるようになるのです。必ずしも、死は不安や恐れの理由や対象になるものではないのです。根源的には、命と復活の主イエスが共にいてくださるという信仰と信頼です。
愛する人との別れを見送る人は、悲しみ涙することができます。別れていく人は、悲しんでも、涙することができません。無言のうちの別れです。時には、まなじりから一条の涙を流されて召される方もあります。多くの方々は、それもできずに、愛する人々と別れて、天の故郷に帰って行かれるのです。
・涙をぬぐわれる神
神さまは、そのようにして天に召された人々をどのようにお取り扱いになるのでしょうか。実に、大切な事柄です。
聖書は、神さまのお取り扱いを次のように私たちに語ります。「神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(黙示録七・一七)と記しています。
神さまご自身が、天の故郷に帰って来た人々に近づき、膝を折って、ぬかづき、心の目に溢れる涙をぬぐい取ってくださるというのです。
神さまは、このようにして愛する人々と別れて来た人々の悲しみを和らげ、癒してくださるのです。この神さまの「グリーフ・ワーク」(悲しみを和らげ、癒す働き)によって天に召された方々は、別れの苦しみや痛みから解放されていくのです。この働きは、励ましの働きではなく、心を暖かく包む慰めの働きです。ハイデルベルク信仰問答の問いが、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いから始まるのが分かる思いがします。
私たちが信じる神さまは、実に慰めに満ちたお方です。
先に、死は永遠の別れではなく、その果てに再会のときがあると語りました。
別れを見送った人と見送られた人とが、再び出会うのです。先程、引用したテサロニケの信徒への手紙一、ヨハネの黙示録のみ言葉からうかがい知ることができます。天に召された人と地上に残された人とを結ぶ絆があります。やがて、地上に残された人も天に召されるときが、必ず訪れて来ます。再会のときが来るのです。
・再会の望みに生きる
天の故郷にある人は、後に続く愛によって結ばれた人との再会に望みを置きます。また、地上に生きる人も、先に召された人々との再会を心に秘めて、残された人生を生きて行きます。地上の生涯を「再会の望み」に支えられながら望みつつ生きて行くのです。再会の望みが天と地を結ぶ絆です。
時が満ちて、天に召されて、再会のときを迎えたとき、神の小羊である主イエス・キリストが牧者となって私たちを命の泉に導いてくださいます。そして、再び出会うことができた感動と感激に私たちは浴することがゆるされます。地上に生きる私たちは、この再会の望みに生かされ、生きて行きます。心の小脇に抱いて進み行きます。
愛する人との別れは、このような「再会の望み」を私たちにもたらしているのです。地上にある私たちには、悲しさと侘しさを耐える力が与えられているのです。事実、この望みに生かされて生きておられる方々が多くおられます。
私たちも地上の生涯に幕を降ろし、天の故郷に帰るときには、先に神さまのみもとに帰った愛する人との再会がゆるされます。互いに手を固く握り合って再会を喜び、感謝し、地上にあったときのことを顧み、互いに労い合うのです。
復活の主イエスが私たちの牧者となって、命の水の泉に私たちを導き、神さまに共に礼拝を献げるのです。
(聖徒の日・永眠者記念礼拝/弘前教会牧師)