マタイによる福音書二章一~一二節
別の道を通って
・決 意
「誓うより 願うばかりの初詣」 (読み人知らず)
私たちは、決意を以って新年を歩み出したい。教会の頭なる主イエス・キリストが我らと共にいて導いて下さるのであるから。
昨年、日本基督教団出版局から世に出された画期的大著「私には夢がある」の主人公、マルチン・ルーサー・キング牧師はこう言った。
「新しい年は新しい機会である。神は我々を祝福し給うゆえに、かれを中心として、愛と平和と兄弟愛と正義の共同体を創り出すよう挑戦し給うのだ。
これらの機会に、我々が明らかに応答し、我々の主また救い主であるイエス・キリストの栄光をあらわすことができるようにと祈る」(アトランタにて)
神の挑戦に応答し、主の栄光をあらわす一年でありたい。
・継 続
新年第一日に与えられた聖書日課はマタイ二章一節以下である。
「占星術の学者たちが訪れる」といった箇所を新年に読むことを訝しく思う向きもあるかも知れぬ。
しかし、この日課はこれでよいのだ。大体一月六日のエピファニー(公現日)までがクリスマス・シーズンなのだから。
降誕祭を終えてしまって新年を迎えたのではない。クリスマスの恵みを継続して新年に突入しているのである。
ワルター・リュティが元旦の黙想の中で「私たちは降誕祭から歩みはじめている。降誕祭は、今や過ぎ去ったのではない。降誕祭は今あり、この一年全体を貫いて存在している」と記している。
「インマヌエル(神は我々と共におられる)」、この確かさが我々をとらえ、世界を貫く真理であるゆえに、来る日も、来る日もクリスマスとして祈りと業とを継続させていくのだ。
・ヘ ロ デ
さて、「ひれ伏して幼子を拝み」最初のクリスマス礼拝者となった学者たちはヘロデ王に対して決してひれ伏しも拝みもしなかった。
この世の権力者に追随せず、まことの神をのみ礼拝すること、その姿勢を貫くことが我々の決意とならねばならない。
ヘロデの生き方をとらないことが、我々の生き方、在り方、対し方となるのであるが、ではヘロデの生き方とは何であるのか。
それは、「奪う・従わせる・無きものとする」といったことを当然とすることであろう。
ヘロデは「狐のように王位につき、虎のように支配し、豚のように死んだ」と言われている人物である。
しかし奪う・従わせる・無きものとする、といった悪しき権力志向は皆が各々に持っているものではないのか。小さなヘロデ性を我が内に持っていることを認めざるをえない。
そうした強い傾向性を持つ我々はどこで変わるのであろう。努力や根性といったもので変えられるはずがない。
「社会変革を叫んだが、自己変革ができなかった」と総括した革命家の述懐を忘れることができない。
人は一体「自分には優しい弁護士になり、敵には最も厳しい検事となる」と言われる。
では何処で変えられるのだろう。まことの愛に出会った時にこそ変えられるのだ。
人の救いのため来たり給うた幼子、人間が不死の生命を得るために自らは死ぬ、そのための誕生たるを愛の直観によってなした学者たちは、ひれ伏して拝した。自らの力で変わったというより、御子を礼拝することによって変えられたのである。
教団の全ての教会が真の礼拝を捧げることによって変えられる、イデオロギーによって変えるのではなく、礼拝により変革させられるものでありたい。み言葉によって変えられたい。
・転 換
こんな話を聞いたことがある。
「海釣りに行った人が夢中になっているうちに帰りの方角が分らなくなってしまった。懐中電灯やランプやあらゆる光をつけて方角を探していた。
その時『明かりを消せ!』との声がかかった。目が慣れてくると闇の中から対岸の灯が見えてくるではないか。こうして遂に方向、方角を取り戻した」
自分の助けとなるべきものが案外助けになっていないことがある。人工的な自らの光を消して、暗い中で佇む方がよく見えてくることだってある。
「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」とある(三節)。
不安を感じたのは新しい王の誕生により失脚するかも知れぬと脅かしを直感したヘロデ王だけではなかった。「エルサレムの人々も皆、同様であった」というのだ。
本来ヘロデを支持しているとは思えないエルサレム市民までが不安をおぼえたのは何故であろうか。
それは、満足しているわけではないが、それなりにそこそこの場が築かれている。いやなことが多いが楽しみもないわけではない。新しい王の誕生によって、この生活に変化をきたすのはゴメンだ。価値観が変化し、最初からやり直すなんてマッピラだ。こんなところだろう。
政治に対して批判の多い市民もいざとなると保守的なものだ。
もう先が見えている身なのに、あくまでも王座に執着しようとするヘロデ、先がまったく見えないのに、当座、さしあたりの安定にしがみつこうとするエルサレムの人々、彼らはまったく異なる立場でありながら、「不安を抱いた」ことにおいては奇妙なことに同じであった。
自己中心から神中心への転換こそなくてならないものであることを痛感する。
・別 の 道
「小さな事物に対する人間の感じ易さと、大きな事物に対する人間の無感覚とは奇妙な顚倒のしるしである」(パスカル)
どうでもよいことのために眠れぬ夜を過ごす人が、間もなく死によって決定的に崩壊する有限性を担っていることに無関心でいる。これが人間の奇妙な顚倒のしるしというのだ。
この点を福音が衝く。「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げを受け、別の道を通って自分たちの国へ帰っていく。自己中心、自己絶対化の道に別れを告げインマヌエルの道を生き伝道する、これぞ、この年の決意でありたい。
ヘロデ的自己崇拝の道に別れを告げて、世の救い主イエス・キリストを真実に礼拝する。これぞ我らの等しき課題である。
それは礼拝と礼拝との間に我らの人生は存在し、常に付き纏う偶像崇拝に勝利することこそが、命の使い方としての使命であるからだ。
そして礼拝から伝道へと遣わされていくこと、この一点への旺盛な自覚と集中性、このことが「別の道を通る」ことたるを弁えて進み行きたい。
欲と得と楽、これを中核としたヘロデの道から、仕えられるためではなく仕えるために来たり給うた主の道を行く、そして仕えて行く、此処で一つでいよう。
(聖ヶ丘教会牧師、日本基督教団総会議長)