あり得ないはなし
ルカによる福音書2章18節
「キリスト」とは何ものか
いまさらながらでありますが、「クリスマス」という言葉は、「クリス」と「マス」がくっついてできた言葉。「クリス」は「キリスト」のこと。「マス」はカトリック教会の礼拝をミサというのにつながり、私たちの言葉で言えば「礼拝」となるでしょう。つまり、「キリストを礼拝する」というのが、クリスマスという言葉の意味と言えるでしょう。古めかしい言い方ですと、東方の博士たちが長い旅をして、新しい王としてのキリストを拝み(礼拝)に来たのも、まさにクリスマスだと言えるでしょう。私たちもその言葉のとおりでありたいものです。
ただ、歴史を振り返ってみますと「キリスト」の中身がいくらでも入れ替えられてしまうことが起こっているように思えます。人は実に都合よく「キリスト」の中身をすり替えるものではないでしょうか。
「キリスト」とは何ものか。飼い葉桶の中の赤子は、キリストとしてどのように歩んでいくのか。キリストとは、「救い主」という意味であるのは承知されていることでしょうが、いったい何から、誰を、どのように救ってくれるのか。そもそも「救い」とは何なのか。そんな当たり前に分かっているだろうと思っていることが、案外的外れになってしまっていないか、よくよく考えてみる時としてクリスマスの時が与えられているように思います。
「つまずき」に満ちた生涯
主イエスのご生涯を聖書に見ていきますと、クリスマスという誕生の出来事ばかりでなく、不思議なことばかりです。およそ30才の頃、公の活動を始められた(ルカ3・23)とあります。それまではナザレの村で大工をしておられたよう。ところが人から見れば「突然」、おそらくご本人にすれば「時満ちて」公の活動を始められます。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って伝道をされ、弟子たちを召して町々を巡り、そしてやはり時が来たのを知ってエルサレムへと向かわれ、十字架に架けられていくわけです。大勢の人たちが全国から癒してもらおうと、また話を聞こうと集まったとあります。政治的な背景が何も見えないこの「ナザレのイエス」と言われる人物が、当時の権力者たちにとってどうしても排除しなければならない存在になっていったのは、何故なのでしょうか。考えてみますと、人は集まっているが何の統率もできておらず、政治的な脅威になるとはとても思えません。それなのに、権力者たちは民衆を煽り立てて「十字架につけろ!」と叫ばせます。遂に「キリスト」は十字架に架けられていきます。主は何の抵抗もせず、不法な裁判にもかかわらず、その裁きを黙って受けていかれます。
クリスマスの出来事の「不思議さ」や「あり得なさ」は、クリスマスだけのことではなく、主イエス・キリストのご生涯、主イエス・キリストの存在そのものが、「不思議」と言ってもいいかもしれません。いや、「不思議」というレベルをはるかに越えて、「つまずき」とでも言うべきものではないでしょうか。使徒パウロはコリントの信徒への手紙一の1章18〜25節で「十字架につけられたキリスト」が「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」であると言っています。神さまが与えようとしてくださる「救い」を十字架に見るのは、決して当たり前なわけでも、すんなり受け入れられるものでもないということでしょう。「そんなバカな話があるわけがない」、「訳わかんない!あり得ない!」と言われて、スルーされるのが落ちです。
あり得ない恵みの中で生かされる幸い
主イエス・キリストの救いをいただくには、十字架という「つまずき」にきっちりと向き合わなければならないのではないでしょうか。それは自分に都合の良いキリストを理屈をこねて作り上げるのではなく、十字架の前に立った時に、まっ先に自分が鏡に映し出されるように見えてきてしまうこととなるでしょう。そこに映る自分の醜さ、汚れ果て、血にそまった手をしているのに、向き合わなければならなくなります。そこから逃げ出したくなるのを、不思議にもとどめられて、なお十字架を仰ぎ、十字架の言葉に聞く時、そこに復活の主イエスと相対していることに目を開かれるのです。最後の晩餐で、主が「これはあなたがたのためのわたしの体」と言ってパンを裂いて渡されたのと同じように、この十字架はあなたのためのものだと、その御手が差し伸べられるのです。
文豪ドストエフスキーは『罪と罰』というタイトルの小説を書きましたが、この作品は、罪を犯してしまった者が、どんなに自分で償いをして罪を消そうとしても消しきれず、本当に罪をなくすことができるのは、キリストの十字架による命の代償(贖罪)だというところに行き着かせるものだと思います。罪を自覚するのがきっと第一歩で、それも自力ではできません。不思議な導きの中で、鏡の前に立たせられて八方塞がりになってしまいます。しかしまさにそこに復活の主が相対して下さり、その釘跡のついた手が差し伸べられてくるのを見出すのです。それが愛の御手であることに目を開かれていく時、深い悲しみをもって悔い改めて、その御手に自分のすべてをゆだねていくことになるでしょう。それを生ける主こそが、しっかと受け止めてくださるのです。
不思議という言い方を重ねてきましたが、そこには深い神さまの憐れみがあるのだと言ってよいと思います。あり得ないのは神さまの救いの御業の方ではなく、救われるはずのないこの自分が赦され救われたことです。生ける復活の主イエスとの対話の中に、尽きることのない赦しをいただきつつ、天の御国を目指して生きていけるということです。クリスマス、その不思議さ、あり得なさは、すべて十字架と復活を見ろと指さしているものだと聖書全体から聞きます。飼い葉桶に眠る小さな赤子の主の手が、やがて十字架に釘打たれるのを私たちは知っています。飼い葉桶もあり得ないが、釘跡のついた手がこの自分に差し出されてくるのもあり得ないのではないでしょうか。あり得ない恵みの中、生かされている幸いを、「クリスマス」という言葉に立ち帰ってかみしめたく願います。
(小金井緑町教会牧師)