今は亡き旧約学の教授が、神学生に向けて、「土の器」という言葉を用いて証をすることに苦言を呈していたのを思い起こす。当時、「土の器」を好んで用いていた神学生の一人として、その言葉を聞いた時、意図を理解できず、怪訝に思ったのを覚えている。▼神学生にしてみれば、訓練中の身として、未熟である自らを謙遜して語りたくなる言葉だが、それが多用される中で、謙遜の美徳を身に着けていることを表す言葉のようになっていたのを座視できなかったのかもしれない。▼パウロが、「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(二コリ4・7)と語る時、そこには、自らの未熟さに対する卑下も、謙遜に振る舞える自分に対する自惚れもない。ただ自身が、脆く、壊れやすく、朽ちて行くものであるからこそ、その中に納められた、キリストによって与えられる罪と死を超える命、神から来る偉大な力が明確になることを伝えている。▼神学校を卒業して年月を経、お世話になった伝道者の訃報に接することが多くなった。主を讃えつつ召されて行く先達の姿に接する度に、「土の器」として主を証する姿勢を教えられている。