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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【5005・06号】メッセージ(1面)

2023年9月30日

確かな救いがここにある

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
(ローマの信徒への手紙6章8節)

日本基督教団総幹事 網中彰子

 「誕生日までに洗礼を受けたいです!」前任地の横浜明星教会に着任して3回目の主日礼拝後に高校生が笑顔でそう申し出た。蒔かれた種が最善の時に芽吹くように、受洗者が与えられるようにと祈り続けた教会の信仰の潤いに満たされて、その一人が洗礼へと導かれたことを思い皆で喜びの時を迎えた。古い自分が主と共に死に、主と共に生きる幸いがある。

初めての死

 私の母方の祖父はカトリック雪ノ下教会の神父様と交流があった。洗礼は受けていなかったが家では讃美歌の「山路こえて」を弾き語りしていた。その祖父が亡くなり戸惑う家族に神父様は「教会で葬儀をしましょう」とお声をかけてくださったそうだ。最後に棺に花を入れる時、5歳の私は会堂の椅子で待つよう家族に言われた。すると一人のシスターが隣に座ってこう言った。「おじいちゃまはね、寂しくないのよ。神さまと一緒だから寂しくないの」それなら良かった。幼いながらも安心した。死と、神さまとの初めての出会いの記憶だ。
 「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(ヨハネの黙示録21章3〜4節)。地上では別れの悲しみがあるが本人は幸いの内にある。天にある平安は深い慰めに満ちている。

ちゃっかり十字架

 5月の父の葬儀の時、「先生、骨壺に十字架を入れてしまいました」家に届いた十字架のつく居場所。一人っ子の私はクリスチャンではない父母と延命治療はどうするか、葬儀はどうしたいかなど互いの意思を確認していた。本人の希望通り懇意にしている栄光式典社に依頼し母と私で自宅から送ることとなった。こう即答した。「洗礼は受けていませんが十字架があっても大丈夫です!晩年は一人で富士見町教会に通っていましたし(笑)」。「なんちゃって」クリスチャンのようにちゃっかり父は収まった。先程の祖父の墓石にはちゃっかり十字架が刻まれている。寛容な神さまに見た目では甘えさせてもらった。

主のものとなる洗礼

 生きている間に共にあるお方を与えられるのが洗礼による「神われらと共にいます」インマヌエル・アーメンの信仰による平安だ。死んだら楽になる、ではなく、生きていて楽になる。そんな生き方がある、道がある、いのちがあるという事実を礼拝で聖書から聴き聖霊によって洗礼へと導かれる。主のものとされて、ここに救いがあると福音伝道していく恵みと喜び、希望がある。

死を死ぬ神の子

 信仰者でも自ら命を絶つ方はいる。20代の頃そんな方の葬儀に出たとき、開始前の礼拝堂は重苦しい雰囲気があった。
 招詞でルカによる福音書が読まれた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(23章34節)。十字架上のイエスさまの言葉だ。
 そうだった。亡くなった方だけが何をしているのか知らないのではなく、私たちも皆初め、救い主が何かも分からず、神さまの力によって信仰により分かったとしてもなお神さまより人の力を過信して一喜一憂することがあるのだ。信仰のいのちを与えられてもキリスト以前に戻るかのような愚かさがある。もちろん救い以前に戻ることはないのだが。

 

限界のその先に

 どんなに思いを寄せても完全に人も自分も救えないと一つの限界を知らされて、救いを求める。私たちの罪を十字架の死によって贖ってくださったイエスさまを、昔のようにこちらの気まぐれで呼び出したり放っておいたりするのではなく、主権を完全に握られて、洗礼によって新しいいのちを生きることによって、主と共に生きるしかない歩みを与えられる。時を支配する神さまが私たちを愛によって支配してくださるゆえに、神さまのものとされている今、誰かが私たちを傷つけようとしても、他者も自分も社会も私たちを完全に支配することはないのだ。
 誰かの死に対する思いも、自ら死にたい思いも、自暴自棄になって誰かを死なせてしまいたいという思いも、死に関わる思いはすべて既に十字架上のイエスさまにぶつけて滅ぼしていただいたのだ。洗礼によるそんな救いがあることをそれぞれの賜物によって伝えていく。
 帰る場所、すなわち命の造り主がおられるからこそ価値観が異なる人々とも共に生きることが出来る。諸宗教者の会議では冒頭に沈黙の時間がある。祈りのひとときだ。端から見れば何もしていない時間。けれども主イエス・キリストを通して祈るとき大きな力が動く。齢を重ねて動けなくなっても祈ることが出来る。その存在が証しとなる。

 

実感を超える信仰

「信徒の友」2006年10月号「ここに教会がある」の記事の中で調布教会の石川恭さんという方の言葉が印象に残り書き留めておいた。当時99歳。「祈っていると、祈られていることを感じて、さびしくないんです」。
 祈りは神さまとの対話と他者との連帯でもあることを知らされる。教会はこれからも神さまの愛する世の平和と救いを祈る。
 女子学院の高校3年生の修養会の講師に招かれた時、分団を回っていたら「私はまだ受洗していないけれど神さまは信じている。でもたまには『頑張っているね』と実際に神さまに肩をトントンと叩いてほしい」と高校生が嬉しそうに言っていた。実感、温もり、具体的な何か。確かにそれも大切だ。けれども決して失われず、絶えず新しくされる神さまの御業が今日も包んでいる。祈っていると寂しくない。本当にそう感じておられるからこその証しだ。一瞬より永遠を確信し、一瞬に永遠があると実感する。なんちゃってでもちゃっかりでもなく洗礼によって完全に神さまに委ねきる。見えない十字架を身に帯びて心だけでも体だけでもない罪を贖われた恵みの先に復活の主の再臨の希望がある。
 「洗礼を受けたいです」。すべての教会に神さまとの新しい出会いがあるように、洗礼の喜びが与えられるようにその一人の救いを祈る。

(教団総幹事)

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