試練の中で広がった主の御業
小川文子
《フィリピン クライスト•ザ•ヒーラー国際宣教運動牧師》
皆様いつも尊いお祈りとお支えを心より感謝申し上げます。御恵みにより、また本当に皆様のお祈りにより、私共一家6人も守られ元気にお仕えしています。コロナ禍での地下教会のような教会生活、2年間登校のなかった学校生活、その後襲った台風の被害と2ヶ月の停電断水生活を通しても、主は多くの御業をなしていてくださいました。人々は時間がある分熱心に伝道し、教会も停滞することなく活動し続けてきました。この間に救われた人、成長したリーダーたちが自然と「故郷にも福音を」とボホール全土に働きの場を広げ始めました。
そのタイミングで、この6年間自宅兼教会だった借家が売却されることになり、教会が移転を余儀なくされました。それを機に地域ごとに独立するよう導かれ、私たちの親しい弟子たちが各々すでに持っていたグループに改めて牧師として任命されるような形で、4月から8つの教会に分かれそれぞれに礼拝を守っています。
その一つロヨ教会は台風の時流されて4本の柱しか残らなかった家ですが、再建された後に住人が救われ、現在は礼拝に用いられるようになりました。ハレルヤ!
またダイットサー教会も、災害時に村中の家庭に物資を配ったことがきっかけとなり開拓された教会です。
これら遠方の教会は、雨でも炎天下でも2〜3時間かけて通い開拓してきたリーダーたち(現牧師)の働きにより始まり細々とその火を灯しています。牧師たちは皆、五里霧中で、メンバーが減ってしまったり、仕事と家庭を抱え時間的にも経済的にも大変な中、手弁当で開拓伝道をしています。なお彼らと教会のためにお祈りください。またぜひ励ましにいらしてください!
皆様のお祈りに心より感謝して…。
インドの農村人材育成
三浦照男
《インド サム・ヒギンボトム農工科学大学マキノスクール学部長》
U.P.州プラヤグラージ県にあるサムヒギンボトム農工科学大学は、1909年にアメリカの長老派宣教師によって設立された農業学校が総合大学に発展したものです。しかし、インドの農村が疲弊していく状況を危惧し、農村青年のために教育機会を与えようと当大学農学部に設立されたのが、ノンフォーマル教育学部で後に設立に尽力した日本キリスト教団派遣宣教師・牧野一穂博士の名をとって2009年にマキノスクールと改名されました。
当初より農村のエリートを育てるというよりは農村の「土」に根ざした若者の育成を目指してきました。「健康な土づくり、その土による健康な食べものを、そして人々の健康な体と命をつくる」。このような土づくりに希望を持てるような教育を目指してきたのです。カリキュラムはいたってノンフォーマル。即ち固定したカリキュラムはありません。学生出身地の農村環境、関心、教育レベルを考えながらカリキュラムスケジュールを立てていきます。10名前後で、年齢も18歳から40歳まで、高卒から大卒までまちまちです。だからこそ柔軟性のある研修が必要且つ重要となっています。
土づくりと環境保全を中心とした循環型有機農業、多様な野菜作物の栽培のみならず、それらの農産物の食品加工も学び、更にオルタナティブな販売方法を学ぶ。殆どの研修生にとってはハードで、挑戦的な学びです。更に、リーダーシップの能力を培ってもらうために、月に一度の朝の集会の司会や様々なイベントでリーダーとなってもらっています。インド各地から、またミャンマーなどの周辺諸国から、更に日本からもこの学びに参加しています。異文化環境の中で切磋琢磨し合いながら10か月間学ぶのです。自ら育った環境や文化、また自身を再認識、再評価するためにも異文化環境での学びは一生忘れられないものとなっているようです。多様なものを単に忌避するのではなく、理解しようとする努力が必要なのです。
平和な社会に近づくために、多数派、少数派双方が互いの文化、歴史、宗教に敬意を払う姿勢が必要なのです。独自な文化や宗教は彼ら彼女らが生きて来た誇りなのですから。
マタイ13章18〜21節にからし種やパン種のたとえが語られています。それらは天国のようであると。目立たぬ小さなものであっても、それが成長すれば大きな働きをするのです。
私たちの活動は小さな群れです。今年度もインド5名、ミャンマー2名、そして日本1名、総勢8名(男女各4名)の学生がマキノスクールで学んでいます。平和な社会へ向かって希望を見出せるような研修にしたいと願って活動を続けてまいります。
お祈りに加えていただければ幸いです。
必要なことはただ一つ
佐々木良子
《ケルン・ボン日本語キリスト教会牧師》
世界中が3年前の新型コロナウイルスパンデミックをはじめとして、ロシアによるウクライナの侵攻や異常気象等、未曾有の艱難に直面し、人々の人生に甚大な影響を及ぼし続けています。とはいえ、全てがマイナス要因ではなく、教えられたことも確かにありました。
最近周囲の方々と、「ご飯を美味しく食べることができ、自分の足で歩けて、寝る家があるということは最高の幸せよね‼」という言葉をよく交わします。苦しみや悩みの中にあるからこそ言えるのです。生きる上で大切なことは、「あれもこれも」必要ではない、ということを大勢の方が実感しているようです。
教会生活でも同じことが言えると思います。長い間、思うように活動ができず、例年通りに年間計画も立てられず、焦りと無力さを覚えました。しかし、当然のごとく慣例的に行っていたことはあくまでも人間の計画で、教会の本質ではないことに気づかされました。
イエスさまは、「…あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」(ルカ10・42)と仰せになりました。数々の枝葉の事に心が囚われていた私に語られた御言葉です。教会にとって決定的なことは、かけがえのない兄弟姉妹と共に神を見上げ、神に信頼すること。そして礼拝を捧げること。これだけで十分です。
毎週日曜日、いつものように、いつもの席に、いつもの方が座っておられる光景は、「見よ、兄弟が共に座っている。 なんという恵み、なんという喜び」(詩133・1)とあるように、主にある真の幸いと同時に、神の国がそこに存在していることを見出します。
今後、この世がどのようであっても、兄弟姉妹と共に主の恵みと憐れみを受け続けながら礼拝する者として歩んで参りたいです。主イエスが私たちに生きる力と喜びを与えてくださるからです。