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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4993・94号】メッセージ 主の贖いの恵みによって力づけられる(1面)

2023年3月25日

主の贖いの恵みによって力づけられる

「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。
ルカによる福音書第22章31〜34節、ローマの信徒への手紙第16章25〜27節

浅草教会牧師
篠田真紀子

贖いの恵みによって

 「立ち直ったら…とイエスさまが仰るのだから、私は立ち直ることが出来るということですね」…体調を崩して礼拝出席が叶わず、文書で送った説教を読んだ教会員からの喜びの声でした。聖書は神の言葉であり、語られた説教は命のみ言葉となるのだということを、また確信させられました。
 私が高校卒業の時=生まれ育った家を離れる時に、祖母から貰った口語訳聖書の見開きには「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい」(エペソ6・10)と筆文字で添えられています。そのみ言葉は、時にとても心強い励ましであり、また時に、とても重荷となる信じ難いみ言葉でした。キリスト者となる前も、なってからも、人は強くなることを目指さねばならないのかということが、私にはいつも重荷に思えたからです。
 「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集い」と信仰告白する、この「恵み」が、私には長い間ピンと来ませんでした。しかし、ある時、それがこの私のための主の体と血=主の贖いの恵みであることを知って、私は洗礼を受けました。いや、そのことが嬉しすぎて誰かに伝えたくて、牧師となってしまったのです。主の贖いの恵みはそれ以来、ずっと私を強めて生かす力です。それは、私の罪を赦して神の子とし(義認)、私をこの世のあらゆる働きへと遣わす原動力です。そう、聖化の歩みもまた、主の贖いの恵みなのだと歳を重ねるごとに身に染みてきました。
 「強くなりなさい」は、文字通り訳せば「強くされなさい」(神的受動態)であり、自分で強くなれなくても、主にあって、その偉大な力=主の贖いの恵みによって強くされればよいのです。そのことが私だけではない、教会の皆さんをも生かしていることを改めて知らされた今年の受難節の始まりでした。


わたしの福音

 浅草教会では、コロナ禍をローマの信徒への手紙のみ言葉によって導かれ、今年の受難節に入る前、その最後のみ言葉を聴きました。
 「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります」(16・25)。
 「強めること」=「力づける」という言葉です。イエスさまが十字架の前にペトロに言われた言葉を想い起します。ルカ22章32節「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
 そして、使徒言行録に沢山出てきます。例えば、
「パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけた」(使徒15・40〜41、他18・23)等。
 つまり、人々を「力づける」ということは、キリストの弟子、使徒たちの使命=教会の使命だったのです。パウロはロマ書の最初1章11節でも「あなたがたにぜひ会いたいのは、〝霊〟の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです」と言っていて、これも同じ言葉です。誰かを力づけることが出来るということは究極の隣人愛の実践なのだと思います。自分が既に「私はこれで力づけられた」というものを持っているからこそ、誰かを力づけることが可能になるのです。
 パウロはここで、「わたしの福音」という不思議な言い方をしています。それはすなわち「イエス・キリストについての宣教」なのだと、すぐに言い換えていますが、それは「わたしの福音」なのです。なぜなら、キリストがパウロに出会ってくださり、呼びかけ、パウロの罪を赦して新しく生かし、そして、キリストがパウロを使徒として立てて、お遣わしになっているからです。つまり、パウロを生かしているもの、パウロを立たせているもの、それがキリストの福音なのですから、それは「わたしの福音」なのです。
 パウロは、この手紙を書き始める時、自分を「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」(1・1)と自己紹介していました。自分は、キリストを宣べ伝える「神の福音」のために召し出されたと言っていたのです。でも最後には、それは「わたしの福音」だと言うのです。なぜなら、それはパウロ自身がそれによって救われ、生かされている福音に他ならないからです。だからそれが人を力づけることが出来ると、はっきりと言えるわけです。
 力づけるという言葉には、「強める」という意味だけでなく、「しっかりと固く据える」という意味があります。つまり、土台のように動かなくするのです。パウロは、「わたしの福音」と言えるほどに、もはやキリストに結ばれて動かされない、そういう風に力づけられているのです。パウロの力強さ、キリストに結ばれていることの力強さはパウロの手紙のあちこちに見出すことが出来ます。例えば、コリント二4章「…わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。…四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず…」。

 

人々を力づけるもの

 迫害者であったパウロにも示された神の福音は、今やパウロの宣教を通して、人々を力づけるものとなっているのです。神さまがそうなさるのです。福音は、もはや隠されてはいません。すべての異邦人に、つまり全人類に知られるようになりました。だから、この地の果ての日本にいて、私たちは救いのみ言葉を聴いているのです。
 贖いの主が、今、十字架へと進みゆかれます。あなたのために主は十字架にその命をささげ、三日目に、その死に勝利してくださいます。だから、私たちはつまずくことがあっても、完全にダメになることはありません。主の贖いの恵みが、どんな時にも、どんなところからでも立ち上がらせてくださいます。だから、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と私たちも召されているのです。
 「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように」(16・24)。

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