霊の初穂 梅津裕美
ローマの信徒への手紙8章18〜30節
初穂の祝い
主イエス・キリストのよみがえりを祝う復活祭から50日目の五旬祭、ユダヤでは小麦の収穫「初穂」を祝う刈り入れ祭でした。「初穂」とは、そのあとに多くの収穫があることを約束する言葉でした。
ちょうどその日に、天から激しい風が吹いてきて、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまりました。それは、天から与えられた炎、たとえ小さくとも決して消えない聖霊の初穂でした。復活の主イエス・キリストがご自身の体として与える教会に、天から注いだ霊の灯でした。それは、いかなる時代にも消えることなく、蒔かれた種を育て、実りをもたらし、収穫へといざなう聖なる力でした。
うめく世にあって
しかし、今私たちは、その聖なる力がどこに働いているのか見失うような時代に生きています。感染症に悩まされる日々は、既に3年目に突入しました。目まぐるしく変化する感染状況に適応しながら、疲れ果てている人々がいます。毎日の暮らしが精いっぱいで、気づけば心がすれ違っていた人々、休みたくとも休めない人々、行動が制限されて思うように遊べない子どもたち、将来が見通せず「これからどうなるのだろう」と不安に覆われて、世はうめいているのです。
さらに、前世紀に起きた二度の世界大戦によって、「平和」の幸いを学んだはずの人類が、新たな戦闘を始め、それを終わらせることができない現実が立ちはだかっています。いえ、それは今や過去以上の恐ろしさを露呈しているのです。生物兵器、化学兵器、核兵器を一層おぞましい武器へと人類自らが開発してしまったからです。それによって倒されるのは敵だけでなく、わが身を滅ぼすことだと誰が分かっていたのでしょうか。ニュースに表れる同じ世界とは思いたくない映像、人が殺されている光景をまるで道の向こう側から眺めているかのような自分に、いつの間にか慣れてしまうのでしょうか。今、世はうめいています。
そして、この世のうめきを真剣に受け止めて、神に執り成しの祈りを捧げている教会もまた、苦しんでいます。この危機の時代に教会自身を保持することに懸命で、宣教へと進み出せない無力を痛感し、教会もまたあえいでいるのではないでしょうか。
楽観ではなく信仰に立つ
コロナ禍の教会を守るため、感染対策に明け暮れました。どうしたら対面礼拝を続けられるのか、どうしたら病弱で来会できない兄姉に御言葉を届けることができるのか、そして、どうしたらこの危機の時代に神を探し求めている求道者を教会に招くことができるのか。「なんとかなる」とは言えない厳しさがありました。「大丈夫」とは思えない緊張が続きました。「コロナ禍が終わった時に一体何が教会に残っているのだろう」と、見通せない将来をなんとか見据えようとする自分に疲れました。懸命に祈りの手をあわせ、祈りの言葉を紡ぎながら、行き着いたところは「キリエ・エレイソン(主よ、あわれみたまえ)」己の力を捨てよと。自分の誠実さやひたすらさでは乗り越えられない現在の苦しみゆえに、自分ではなく神のところにある力を仰がざるをえないのです。
それこそペンテコステに天から与えられた炎、たとえ小さくとも決して消えない聖霊の初穂です。それは、いかなる時代にも消えることなく、小さな種を実りに至らせる聖なる力です。疫病や戦火に追い散らされ、うめき続けている者たちを神の御許に呼び集め、交わりを回復させる神の力です。
うめきながら執り成す精霊
今改めて実感します。教会に聖霊の初穂が与えられているとはなんという恵みでしょうか。この初穂はより豊かな実りをもたらすために教会で働き続けるのです。どのように働くのでしょう。それは、うめきながらです。神から引き離され罪に堕ちてうめき続けている者たちを救うために、神は愛する御子を与える犠牲を払ってくださいました。罪人の身代わりとなって十字架で苦しみぬいた御子イエス・キリストは、陰府に降ってその闇のすべてを知りつくし、死人の内からよみがえったお方です。そのお方の霊「聖霊」は、なお罪人たちを救うために苦しむことをいとわず、教会を愛しぬきます。自らうめきながら、散らされた者たちを連れ戻し、神と睦ませ、隣人と睦ませるのです。
荻窪清水教会が立つ町は、「清水」が湧き出る地として人々に知られていました。教会はそこに信仰を重ねて、讃美歌21の404番「あまつましみず」を教会歌として特別な思いを込めて歌っています。その2節では「あまつましみず 飲むままに、渇きを知らぬ 身となりぬ。つきぬめぐみは こころのうちに、いずみとなりて 湧きあふる」と歌います。洗礼を受けた教会の部分部分が「渇きを知らない泉」となって主の恵みを溢れさせるとは、なんと喜ばしいことでしょうか。一人一人に聖霊の一灯が与えられているのです。今も聖霊の初穂は、教会でうめきながら働き続けています。礼拝困難の時に、感染対策を尽くして礼拝堂に集う兄姉、集えない兄姉に「なんとしても御言葉を届けたい」と牧師の説教草稿を届ける長老、子どもたちの成長が阻まれないように知恵を絞る日曜学校教師。頭なるキリストに繋がるように助け合い、体の節々が固く結ばれるように祈り合う、教会を愛する炎はかつて以上に燃えています。何ものも消すことができない聖なる灯として、万事が益となるように共に働き続けています。これが教会!
収穫に至らせる精霊
ペンテコステに与えられた聖霊の初穂は、教会を完成へと育む力となって、豊かに実る収穫の時を約束しています。主はその約束を揺るがさず「収穫は多いが働き手が少ない」とまで、御声を響かせています。だから、教会はもう自分を守ることに懸命になるのはよしましょう。互いの召しを尊んで、万事が益となるように共に働きましょう。うめいているこの世には、教会の扉をたたき続けている人々が大勢いるのです。扉を開けましょう。教会を守る聖霊の力を信頼し、自分を守ることを越え出て、外に向かって宣教する教会であり続けましょう。そして、聖霊がもたらす実りの収穫に臨むのです。刈り入れ時はもうそこまで来ています。私たちはその収穫を望み見て、ペンテコステ「聖霊の初穂」をお祝いいたしましょう。(荻窪清水教会牧師)
「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」
ローマの信徒への手紙8章27節