平和を歌うクリスマス
ルカによる福音書2章8〜20節
竹澤知代志(玉川平安教会牧師)
新しい王の誕生
世界で最初のクリスマスに招かれ、礼拝を捧げた人々には、幾つかの共通点があります。深夜に寒い場所で、孤独な思いをしていたこと、貧しいこと、それでも誇り高いことなどが挙げられます。羊飼いたちこそ、これに当て嵌まります。
ユダヤ人のご先祖は、羊や山羊などの小さい家畜を飼うことを生業としていました。日本人にとっての農業と同様に、一種の聖職です。本来は、誇り高い仕事です。しかし、これも日本と同様に、経済的には報われず、なかなかなり手のない、人気薄の職業になっていました。この地方の、夜には急激に冷え込む気候の下で、時に寝ずの番をして獣や盗賊から家畜を守らなければなりません。
羊飼いが、救世主の誕生をいち早く知らされたのには、もう一つ、決定的な理由があったと考えます。
キリストの誕生とは、つまり、新しい王の誕生です。しかも、この王はエルサレムの都に誕生したのではなく、王族貴族の血筋でもありません。大金持ちでも、祭司でもありません。
そんな新しい王が誕生し、即位したら、何よりも必要になるのは、政権を支える強力な軍隊です。その点、羊飼いたちは、有力な兵士候補です。彼らは、獣や盗賊と戦う必要から、杖や鞭を使いこなすことが出来ます。彼らなら、直ぐに弓や槍を自分のものに出来るでしょう。既に使っていたかも知れません。
多分、馬やロバのような動物を乗り物として扱うことが出来ました。何より、日頃から、集団行動に長けています。これらは、兵隊にとって重要な資質です。羊飼いは兵士として即戦力です。
ここに登場する羊飼いたちは、おそらくは雇われ人でしょう。羊も山羊も彼らの財産ではありません。夜通し働いても、大した収入にはなりません。その貧しさから這い出すチャンスもありません。こうした人々にとって、戦争こそ、金儲け、立身出世の機会です。新しい王の誕生は、世に報われない者にとって、千載一遇のチャンスです。
王が誕生した地、ベツレヘム向かう彼らを援護するように、天の大軍が現れました。
いろいろな戦記に描かれるように、都に近づくに連れ新たに人が加わって来るようなら、間違いなく勝ち戦です。まして、天の軍勢が味方するならば、勝利は間違いありません。錦の御旗を掲げたも同然です。
不遇だった羊飼いたちは、天の軍勢と共に、都に駆け上り、古い王を退け、新しい王を立て、仰ぎ、仕えることでしょう。先駆けとなった羊飼いは、一番槍の手柄で、褒美を受けることでしょう。
乳飲み子を見た羊飼い
しかし、何と、天の軍勢は弓矢を取るのではなく、神を讃美する歌を歌いました。その歌は勇ましい軍歌ではなく、平和を歌うものでした。
彼らが都に攻め上ることはありません。羊飼いたちの希望は、たちまちに潰えました。
しかし、彼らはそれでも何故か、天使に告げられた御子に会うために、急ぎ出掛け、「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当て」ました。「乳飲み子」です。
「乳飲み子」です。新しい王たり得るでしょうか。まして、軍勢を率いて戦が出来る筈はありません。
もし、彼らが貧しさ、虐げられている境遇からの脱出を夢見たとしたら、彼らの望みは全く絶たれました。最早一縷の望みもありません。
しかし、「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」と記されています。
乳飲み子を見ただけなのに、彼らは慰められました。彼らは満足しました。乳飲み子を見ただけなのに、彼らの希望は満たされたのです。
彼らが戻って行ったのは、元の荒野です。寂しい、寒い、貧しさだけが待っている場所です。しかし、彼らは慰められました。彼らは満足しました。彼らの希望は満たされたのです。
新しい王を見たからです。その前に跪き礼拝することが出来たからです。
羊飼いは、天使のお告げを受ける前と、その境遇は何一つ変わっていません。しかし、彼らは、決定的に変えられました。
最早、貧しく憐れな羊飼いではありません。救い主に出会った羊飼いなのです。
羊飼いの出来事の後には、不思議な預言者シメオンが登場します。
幼子を胸に抱いた彼は言います。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。
「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」彼が、幼子に会ったことで、死ぬことになりました。
彼の境遇の変化はそれだけです。ローマの軍隊が追い出され、エルサレムの都が解放されるわけでも、都に暮らす人々の生活が豊かになるのでもありません。
しかし、彼は全く変えられました。「この目であなたの救いを見たからです」。
闇の彼方の光を見詰めて
「現代を言い表す言葉は、不安と焦燥だ」と言ったのは誰だったでしょうか、その現代とは、いつだったのでしょうか。誰にでも、いつにでも当て嵌まるように思います。
現代もまた、不安が支配する時代です。焦燥が私たちを駆り立てます。
私たちは、何かしらの安心材料を求めます。エレミヤ書に現れる偽預言者のように、安心を説く学説に魅了され、これにしがみつきたくなります。その直後に、今度は、一層不安を煽り立てるニュースに、心騒がせ、真実に目を背けてはならないと考え直します。
このような時代にも、クリスマスはやって来ました。東から来た博士のように、何度も見失いそうになった星が、また輝きました。
3・11の年のクリスマス、祭壇の燭火は、特別の意味を持ちました。蝋燭は、世界の闇と、心の暗闇とを、際立たせました。闇をどこまでも見詰め、一筋の光を願い求めました。今年のクリスマスも、闇を凝視し、闇の壁を貫いて、壁の彼方の光を見詰めましょう。