以前、教会の会堂や備品を通してそこに積み重ねられてきた信仰生活の重みを味わうことができる幸いをお話したことがあった。破れかけた讃美歌に会員がカバーを着けてくれた喜びを記したが、更に今は聖書にもカバーが掛けられている。会堂にも備品にもその教会の歴史が刻まれて行くのは当然であるが、それは言葉を換えれば信仰の厚みが加えられていくことでもある。礼拝が繰り返され、信徒の信仰生活が積み重ねられていく場がそこにあり、活けるキリストの御体が指し示されている。
聖餐式の折り、ぶどう液のグラスが何種類か用いられていることに気付いた。この教会に来て間もない自分であるが、長い教会の歴史の中で聖餐が繰り返され、グラスもまた補充されてきたことをあらためて感じ取る時であった。そして聖餐に与る人々が、時を経たと思えるグラスを大切に持つ姿は実に印象的であった。もちろん大切なのはそのグラスに注がれているイエス・キリストの血潮であるが、そのグラスにも聖餐の恵みを受け続けてきた教会の姿と信仰の厚みが表されているのである。そこには信仰の先達たちの告白と証が刻まれており、今キリストに生きる者たちの信仰がまた刻まれていくのである。古いグラスも新しいグラスも用いられる器に過ぎない。会堂も備品もみなそうであろう。しかし、聖霊によってイエス・キリストの命と救いが差し出され、信仰によってそれが受け取られる場、それが教会なのである。
(教団副議長 佐々木美知夫)