先立たれた夫に、妻に、再会するのが楽しみです、と素朴な信仰から言われることがある。本紙「消息欄」に逝去教師氏名を挙げさせてもらっている。限られた一通りの報告の行間に、いくつの涙が、笑い、喜びがあったのだろうかと思う。伝道の苦楽を分かち合うとき、どれほど大きな喜びがあるのだろうか。
▼一方、その時、果たして、夫と、妻とわかるのだろうか。死後も、復活も、わたしたちには、まだおぼろげにしか思い描けないでいる。主は、復活の時には、めとることも嫁ぐこともない、天使のようになるのだ、と言われた。
▼夫としての、妻としての何がしかの連続性がきっとあるのだろうけれど、夫婦であることの交わりを越えた大きな交わりに入れられることの約束だ。この交わりには、そもそも結婚していない者たちも、結婚が壊れてしまった者たちもいる。
▼キリストが夫であり、教会が妻であるならば、わたしたちの限界も破れもある結婚に、しかし真理が現わされている。終わりの日に与ることが約束されている、とてつもなく大きな交わりに入れられることが、すでにこの地上の教会の実に小さな交わりに生きることにはじまっている。