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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4664号】クリスマスメッセージ マタイによる福音書25章31~46節

2008年12月13日

主イエスに出会う旅
山田称子

 クリスマスを迎える準備は、自分の誕生日を待ちわびている子どものように「まだ来ないの?」と何度も親に聞き、心躍らせ指折り待ち望む日であるはずです。しかし、世の中のクリスマスは、商業ペースに飲み込まれてしまった状態の名前だけの「クリスマス」となっています。この状況で、本当のクリスマスを伝える教 会の重要な使命を心に受け止める日々です。

擦れ違いの旅
一年間の教会の働きの中で、一番最初にクリスマスの準備をはじめるのは、教会学校(日曜学校)の教師(リーダー)の方々であると思います。どのように今年のクリスマスを子どもたちと一緒に祝い・喜びの時とするか。迎える準備に頭を悩まします。その苦労に一層追い打ちをかけるのが、なかなか続けて出席出来ない子ど もと、元気な子の自由奔放過ぎてまとまらない状態。昔も今も変わらず、自分の好き勝手をして本番にのぞみ、教師をハラハラさせてくれます。
そんな中の一人の子どもとして、私も教会学校の毎年のクリスマスを楽しんで迎えていました。クリスマスのプレゼントをもらうことだけを楽しみにしていた子どもであったと言えます。クリスマスの主役は自分であるかのごとく思っていた私に、二つのショックなことがありました。
それは親と共に行った児童養護施設ホザナ園でのクリスマスの出来事でした。(この児童養護施設は、現在も私が牧会に携わっています浦和別所教会が生み出した施設で、社会福祉法人児童養護施設として五〇人弱の子どもたちが職員と共に生活をしています)
一つは、ホザナ園でのクリスマスは自分が主役ではなかったことでした。常に自分にもプレゼントがあるものと思いこんでいた私にとって、何もないということがショックだったのです。(きっと、お菓子などいただいたと思いますが、園の子どもたちと同じようでなかったことが、ショックだったのだと思います)
ホザナ園でのクリスマス祝会の中で、職員の方々による出し物がありました。その時の出し物の内容に驚いたのが二つ目の出来事でした。それは、「もう一人の博士」という題の人形劇でした。ご存じの方も多いと思いますが、この話をはじめて聞いた時でありましたので、話の中に吸い込まれるように入っていました。博士は三 人しかいないと思っていましたので、「もう一人いた」とは子ども心に驚いていました。この「もう一人の博士」のアルタバンのその生涯に、またまた、感動していました。
アルタバンは、他の三人の博士たちと夜空に輝いた不思議な星を求めて旅をする計画をたてていました。しかし、約束の日に約束の場所に行くことが出来ず、置いてきぼりになり、やむなく一人で旅をすることになったのです。その旅は、主イエスと出会えず、いつも擦れ違いの旅でありました。贈り物として持参した大事な宝石 を持って、主イエスの後を追いかけて行きます。何年も何年も擦れ違いの旅でした。その途中で、困っている人に、悲しんでいる人に、貧しく食を得ることの出来ない人に出会い、大切な宝石を分け与えていくのです。そして、とうとう何もなくなり自分も年老いて死を目の前にした時、十字架上の主イエスと出会うことが出来まし た。主イエスは、アルタバンのなして来た良き業を知っておられ「困っている人、病んでいる人になしたことは、私にしたことなのだ」と言われました。主からのお言葉をいただいて、何一つ無駄ではなく、自分の歩んだ旅は意味があったことを知り、感謝のうちにアルタバンも死んでいくのです。
この話は、この時以来忘れられない心に残るお話となりました。クリスマス=(イコール)プレゼントをもらう時としか考えていなかった心に、大きな衝撃となりました。

主に渡しきる心
クリスマスのメッセージは、「すべての民をそのもろもろの罪から救う者」として主なる神より人間に贈られて来た御子イエスを、最高のプレゼントとしていただくことです。しかし、現状は子どもばかりではなく大人も人々の思いは、この地上での現実的・物質的のみに目を奪われています。思いも心も真理をみつけられず、 本当に生きる意味と希望とを見出せず、直ぐ手に入りそうなものに踊らされている現実が、見えないでいます。また私たちの心が、主なる神より神の一人子を、最高のプレゼントとしていただくというこの時点にのみとどまっているならば、子どもが「クリスマスはサンタクロースがプレゼントを持って来てくれる日」と思っている ことと同じではないでしょうか。
私たち人間は、神の御愛のしるしの御子イエス・キリストを心に受け入れ、その御愛に少しでも感謝を持って答えることが、クリスマスのメッセージへの応答です。
如何にこの愛に答えることが出来るか。神の一人子の身代わりの死の代価に答え、出来ることは、私たちには何もありません。アルタバンは、ただ不思議な星に導かれ救い主としてお生まれになったお方に心からの贈り物をささげることが、生きる望みとなり生涯を歩みました。「何かした」とも、「何か出来る」とも考えていな かったことでしょう。目の前に起きている困難な状況の人に、出来ることをしたということだけです。私たちは、この「自分が出来ることをする」という課題に真っ正面から向き合っていない姿があるかと思わされます。神よりの問いかけに応答していたとしても、主の問いかけを聞く前に答えを自分で決めているのです。「それ以 上は無理です」と。その後には、問いかけがなかったことにしてしまいます。
私たちのために神が、主イエスが、なして下さった贈り物は中途半端のものではありません。身代わりの「死」に、「半分死にましょう」などありません。すべてを捧げ尽くして下さったゆえに、新しい命を与えられキリストと共に生きるものとされました。この主に私たちが捧げることが出来るものはなにか。神はみ言葉を通して語っておられます。主が願っておられる出来る限りのささげものは、私たちのすべての主導権を主に渡しきる心です。私の人生のすべてが主のものとされる時、キリストのご愛の内を生きるゆえにそこには、すべてのことに対して主のみ心に反することに捕らわれることなく、主の平安を頂きつつ自由に生きる喜びが得られます。クリスマスのメッセージに応答いたしましょう。
『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25章40節)
(浦和別所教会牧師)

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