ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。《ルカによる福音書2章6〜20節》
沈黙に押しつぶされそうな夜
クリスマスは招きです。全ての人がクリスマスの出来事へと招き入れられています。救い主の誕生を聞いた人たちは沢山いたことが聖書に記されています。ヘロデ王も、エルサレムの住人も、祭司長や律法学者たちもニュースは耳にしていたのです(マタイ2章)。「民全体に与えられる大きな喜び」が告げられ、また「地には平和」と言われていることからも、限られた、ごく一部の人たちだけがこの出来事に触れたのではなく、民全体、全地に向けて発信された喜びであった、と。
ほとんどが出来事を知っただけで終わりました。けれども、ある人たちは誕生の証人となり、救い主を礼拝し、出ていって証言し、語るものとなったことが記されています。野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちがそうであったと。存在の耐えがたい軽さに晒されて生きていたのです。発言は信用されず、語る言葉も額面通りには受け止められない。語っても通じぬ言葉を抱きしめて、交わりを絶たれて通わぬ命を引きずっていました。
挨拶を交わす程度の点のような交わりはあっても線となってつながることなく沈黙に沈んでいく。私たちを取り巻くネットが、網という意味でありながら、人と人の間、世代の間、家族の間、地域の間、国家の間、互いの間を結ぶはずの交わりとしての言葉は失われてしまっている現実に気付かされる時、羊飼いの置かれていた言語喪失状況は、他人事ではないと思わされます。私たち自身も、また羊飼いのように、舞台の袖の闇にたたずんでいることがある、と。
かつて私もその中に泊まり込んだ小児病棟での数か月間のこと。クリスマスが近づいて次第に光の彩りが増す街の中で、一生治る見込みのない脳性麻痺の女の子、抗がん剤治療で頭髪が抜け落ち苦しみ続ける白血病の高校生、やせ細った摂食障害の小学生、呼吸困難で苦しむ喘息の子、そのほか治る見込みのない病気の子らと親たちが規則的な機械の音と時折響く警告音の中を、昨日は今日と変わらないほど明日の事が心配で、クリスマスもお正月もただそういう名前の一日として過ぎていくしかない中にいる。それがどんなに心が凍えそうに、魂が凍てついてしまうものかを味わいました。世の巷のクリスマスのきらめきは残酷だなと思いました。
人々が寝静まった夜、おきだして徹夜の看病や親の介護をする者の、心がきしんで、思いが叫び出しそうで、魂からとめどなく涙が流れるほどの切なさに思いを寄せました。親しい友にも、尊敬する先生にも、時には親にも伝わらない闇に閉ざされた沈黙に押しつぶされそうな夜がある、と。
羊飼いたちの沈黙が破られる
羊飼いたちの夜、失われた交わりの深い闇夜に寄り添うように、疲れ果てた親の傍らで、誰からも出迎えられず、温かい産湯につかることもないまま、宿の外にしつらえられた客の乗ってきた馬やロバのための冷たい石の餌台の上に、ありあわせの布でくるまれて、寒く、暗い世界の片隅に、きらびやかな舞台の中心から遥かに離れた舞台袖の暗がりに、神の子は横たえられた。
讃美歌107番が「きらめくあかぼし、馬屋に照り、わびしき乾草、まぶねに散る。黄金のゆりかご、錦の産着ぞ、君にふさわしきを」と歌うたびに、情景が迫ってきて、なんと相応しくない仕方で相応しくない所にお生まれになったのか、たとえ誰の子であったとしても、余りにむごすぎると思わされます。けれどもこの世の惨さの極みを引き受けるためにキリストが来られた事が一層深く響いて魂を震わすのです。
羊飼いたちの夜に、沈黙の内に魂が血を滲ませるようにして耐えている「あなたがたのために、救い主がお生まれになった。この方こそ主、メシアである」、と告げられる時、神の子に相応しくない仕方で、けれども羊飼いの闇を照らすに相応しくなられた救い主の姿を見るのです。パウロは「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」と語ります(コリント二8・9)。
出口の見えないトンネルの中にたたずんでいる者の所へと、クリスマスなど関係がないと思っている人の所へとキリストがやってこられた。羊飼いたちの夜は照らされます。羊飼いたちの沈黙は破られます。出来事は言葉となってはじけだします。闇を主の栄光が照らし、沈黙の夜に突如讃美が響いた「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と。
舞台の袖の暗がりで、声を潜めていた羊飼いたちが、話し始めたことを聖書は聞き取っています。「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合」いながら、と。直訳すると「見よう、出来事となったこの言葉を」と。
聖書の世界では古より「言葉」が「出来事」を創り出すのです。世界は神の言葉によって創られ(創世記1章)、初めに言があった(ヨハネ1章)。言葉を見失っていた羊飼いたちが、救いの出来事となった言葉を見に出てゆく。
出来事となった言葉を見て、人の目を避けて町の外にいた羊飼いたちは町に入り、人々にその出来事、その言葉を知らせ始めました。暗闇に光がともったとき、羊飼いたちの言葉ははじけ出しました。ずっとずっと語り続けたのだと思います。たとえ皆から不思議に思われようとも、証しし続けたのだと。舞台の袖から語り出された出来事が、聖書にこうして書き残されるほどなのですから。
羊飼いたちは、はじけ出る言葉で神を崇め、賛美しながら帰って行った。帰って行く場所は同じでも、羊飼いは消えることのない灯を抱えて帰って行った。相変わらず寒いままでも、そこからは暗闇にいる人たちを照らす言葉がともっていた。舞い戻った舞台の袖に光はあたらなくても、そこから聞こえる讃美の歌声が慰めの調べを奏でていた。
出来事となった言葉。わたしたちはクリスマスにそれを聞くのです。羊飼いたちは舞台を去ります。けれども羊飼いの証言は、今なおクリスマスの喜びと共に響いています。現代の羊飼い、闇の中を歩むものを照らす光の言葉となって。(美竹教会牧師)