牧師のパートナーとして…
片岡 賢蔵 (鎌倉泉水教会員)
私は、34歳。職業は、テレビディレクター。妻は、29歳、牧師。これだけで、大方の人に興味を持っていただけるようだ。3年前の結婚式のときを思い出す。ウェディングドレスを知り合いに手作りしてもらい、レースのデザインにも口を挟ませてもらった。披露宴では、妻自慢のギター演奏があったり、当時担当していた報道番組の仲間たちが祝福のビデオをつくってくれたり、楽しい思い出となっている。本当に多くの方に祝福していただいた。
しかし、楽しい時は本当に一瞬だ。後は、ひたすら日々の仕事をこなしていくだけであっという間に、3年。一体、その間に何をなし得てきたのか? 伝道者のパートナーとしての働き? あまりにも何も無いことに呆然とするばかりだ。
聖日の礼拝への出席もままならず、教会の中でこれをしてきたと言える奉仕もない。ただ唯一言えることがあるとすれば伝道者としての妻の近くに寄り添い、他愛もない話しに笑い、時に教会活動について語り、おもむろに口ずさむ賛美歌に合わせてみたりするだけ。
しかし、気がかりなことはあった。妻が伝道師として東京の経堂北教会で3年を務めた後、牧師としてどこの教会に就任するのかを。実は、結婚するとき、「妻がどこの教会に遣わされても付いていきます」こう宣言してしまっていたからだ。家に帰ることもままならない日々が続く仕事漬けの者にとって、この仕事を離れることは一大事だ。結果、どうなったか。神奈川県の鎌倉である。鎌倉駅からバスで15分の所にある鎌倉泉水教会に、妻は牧師として就任することになった。私は、東京の会社まで通勤時間約2時間。この仕事をしている者にとってはかなり厳しい程の距離。
だが、鎌倉泉水教会はとてもかわいらしい礼拝堂で、安心した。そして、素敵な教会員の方々がいらっしゃる。まず注目するのは、そこである。子どもの頃から通っていた教会、私にとっては、寝転がれるほど安心できる家のような場所。それでも、牧師館に住むという経験もなかなかできるものではない。転居してきて2ヶ月。新鮮な日々を送らせていただいている。妻も引き継ぎの処理など慌ただしく過ごしている。
そして、牧師の身近に接するようになって、こう思う。「伝道者というのは、孤独だ」誰に打ち明けられる訳でもない伝道のあれやこれ。それは牧師に限らず、代々のキリスト者たちが担ってきたものではある。それでも、我々プロテスタントは万人祭司の考えにも関わらず、まだまだ牧師と信徒の間の“意識の差”は深いものがあるように思える。神の国の最前線に立つ者としての牧師と、日々の労働の最前線にいる信徒。一信徒として、牧師のパートナーであるというのは、どういうことか。きっと、その双方をずかずかと大胆に渡り歩くことができる存在なのかもしれない。徹底的に孤独に陥った牧師に、のんきに「おはよう」と言えるのは、パートナーくらいのものだからだ。
2人の間にこれから何が起こるかなんてわからないが、どんなに追い詰められた時にも、最も近くに寄り添う者としていることの覚悟はある。
それにしても5月の鎌倉の風は心地よい。新緑が何にも代え難い恵みに気づかせてくれる。