神は、あなたの近くにいます
あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。 世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。 また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
使徒言行録 17 章 23b – 27 節
秋田高陽教会
田中 真 牧師
1.
秋田県秋田市にある、秋田高陽教会の田中と申します。
突然ですが、皆さんにとって教会は「行くところですか?」たぶん、クリスチャンも含めてほとんどの人にとってはそうだと思います。親に連れられて、あるいは友達に誘われて、時に、勇気を出して自分一人で、教会に行く、と言うところから、神さまを信じて生きるということが始まっていきます。そして、イエス・キリストを信じて生きるということの中心には、教会で礼拝をするということがあります。
自分の場合はちょっと違ったんですね。私は、物心ついたときにはすでに教会に「居ました」。牧師の両親のもとに育った自分にとって、教会はまさに家でした。学校でも何でも、教会から出かけて、教会に帰って来る。それが日常であったのです。少なくとも自分にとって教会は、行くところ」というよりも「居るところ」でした。
自分の家が教会だということは、時に自分にとってコンプレックスの一つとなる時もありましたが、大人になり、いろいろあったけれど自分もまた牧師として、教会を家として歩んでいる今、それって実は、めっちゃありがたいことだったんじゃないかと思っています。なぜなら、教会を家として、教会で多くの時を過ごすことで、「神さまはいつでも、どこでも、あなたの近くにいます」ということを自然と感じることができていたのだと思うのです。
2.
ここで、聖書の言葉に目を留めてみたいと思います。これは、イエスさまを救い主と信じる教会が生まれたころの伝道者であるパウロが、聖書の神とはどのようなお方かを紹介する言葉です。
世界とその中の万物とを造られた神(24)
すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神(25)
神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。(26)
「世界とその中の万物=すべてのもの」「すべての人に命と息と、その他すべてのもの」「すべての民族」…ここでパウロは、何回も、すべて、と言っています。皆さんの周りに見えているすべてのもの、皆さんが出会うすべての人、皆さんの町に住むすべての国の人、それらは、すべて、神さまがお造りになったものなのです。世界の全てはメイドインGOD、神さま印の作品なのですよ、とパウロは語っています。そして、それは何のためか。こうあるんですね。
これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見出すことができるようにということなのです。
世界の全ては、人が神を見出すためにある。逆に言えば、この世界の全てを通して、人は神を見出すことができるということです。だからパウロは続けて、
実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
と語ります。神は遠くにいる方ではなく、私たちの近くに、今動画を見ておられるあなたとともに、神さまは実際おられるのです。そしてその神さまから、私たちは自分が生きているこの命を始め、すべてのものを頂いているのです。私たちが今生きている、この時点で、私たちは既に神さまの大きな手の中にいるし、それは、いつでも、どこでも、何をしていても変わらないのです。
最初に、私が教会で生まれ育ち、教会を家としてきたということをお話ししました。そこで私が感じていた感覚、つまり、神さまの懐に抱かれ、生活の中で絶えず神さまを感じていたということは、実は、この世界すべてに当てはまるんでないかと思うんです。私たちは、常に神さまの大きな手の中にいて、その中で息をするだけでも神さまを感じて生きることができるのです。それって、なんてハッピーなことなんでしょう!私たちは、常に神さまのまなざしの中で生きているんですから!
3.
そして、神さまはその大きな手の温かさを、そのまなざしを、よりリアルに、より身近に感じることで、私たちがこの世界から神を見出すセンスを目覚めさせるために、イエスさまという一人の人をこの世界に遣わしました。
結局のところ、この世界の全てから神さまを見出すことができるとしても、それを私たち一人一人が勝手に、自分の好きなように見出すのなら、それは自分に都合のいい、自分で造り出したアイドル(偶像)でしかありません。そうではなく、神さまは、これが俺やで!と。俺って、こんなんやで!とイエスさまによって神さまがどんなお方かを教えてくださったのです。だから、私たちは、神さまって、子どもも、大人も分け隔てなく、どこ生まれか、何人かということも関係なく、すべての人を大切にしてくださって、喜びも、悲しみも、自分事のように一緒に感じてくださって、あまつさえ、こんな自分のために、命さえ差し出してくださる。そんなお方なんだということを信じることができるんです。そして、そう信じることによって、私たちの命は、神さまのものとして生き生きと輝きだすのです。
そう考えると、教会に出かけて、神さまを礼拝するということは、この「イエスさまを通して、この世界から神を見出すセンス」を絶えず養い、研ぎ澄ませるということにほかなりません。もちろん、他にもたくさん大切な意味があります。けれども、日曜日に教会に「行く」。イエス・キリストの父なる神さまを礼拝する。そのことによって、私たちは、この世界と言う神さまの素晴らしい大きな手の中に、実は既に「居る」のだという幸せを発見していくのではないでしょうか。
祈ります。
イエス・キリストの父なる神さま、あなたはこの世界の全てであり、私たちは、イエスさまを通して、いついかなる時も、あなたを世界の中に見出すことができます。どうか、そのセンスに目覚め、あなたを礼拝しながら、生きる幸せ、生きる喜びを常に感じることができますように。イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン






