「沈む者に伸びる御手」
聖書箇所:「 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。 33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」
マタイによる福音書14章22~33節
神奈川教会
兼清啓司 牧師
皆さんこんにちは。11月のメッセージを担当します、神奈川教会の兼清と申します。神奈川幼稚園の園長もしております。マタイによる福音書14章22~33節までを読みながら神様からのメッセージを受け取りたいと思います。
今日の聖書に依りますと、イエス様は弟子たちだけを船に乗せ、ガリラヤ湖の反対側に行くように言われた、とあります。いつもは凪が多いガリラヤ湖も、そのときは向かい風が吹いて弟子たちは「悩まされた」とあります。事実上の航行不能を意味します。向かい風によって悩まされた、というマタイの表現は大変示唆的です。わたしたちもまた強い逆風にさらされ、もう前に進めない、という経験をするからです。しかも夕方から夜にかけてであり、彼らはほとんど明かりがないところで、一晩中漂流するしかありませんでした。そんなときわたしたちはどうすればいいのでしょうか。どうすることもできないのです。しかしこのどうすることもできなくなってしまった者のところへ、キリストは静かに接近される、というのが今日のお話です。
夜が明けるころになって、湖の上を、主イエスが弟子たちのところへ歩いて近づかれました。ところが弟子たちはイエス様だと気づかず、思わず幽霊だ、と恐怖の叫び声をあげたようです。人はピンチに陥ったとき、見なければいけないものを見ず、見なくてもいいものを見てしまう、ということではないでしょうか。私たちは目に見えるもののなかから、自分を救ってくれるものを見つけようとしますが、それは虚しいことです。福音というのは、思わぬところから、それまで見えていなかったところからやってきます。逆風に悩む私たち、暗闇に閉じ込められた私たちに静かに接近しておられるイエス様に気が付きたいのです。
弟子たちに対して、主は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」といわれました。この御声は、パニックになっていた弟子たちにもはっきりと聞こえたようです。目では主イエスを確認できなかった弟子たちですが、耳においては主を認識できました。大きな混乱の中にあっては、視覚よりも、聴覚の方が正しく導くこともあるのです。そして私たちにとってそれは、キリストの御声以外にありません。
聖書の中にガリラヤ湖の話はたくさん出てくるのですが、一部は魚が一杯取れた、みたいな話もありますが、どちらかというと、今日のように嵐や風で船が沈みそうになる、という話のほうが多いです。その意味では、聖書の世界では、ガリラヤ湖は死と滅びにつながる場所であり、死を象徴している、ともいえます。その「死の水」の上をキリストが歩かれた、ということは、まさにキリストが死と滅びを超克なさる方である、というメッセージを含んでいます。
「安心しなさい」というキリストの御声に反応したのはペトロでした。彼は「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」といっています。大変おかしなことをいっています。人間が水の上を歩けるはずがないからです。しかしペトロはこのとき「水の上を歩けるかもしれない」と本気で思いました。そして実際に彼は水の上を歩きました。落ちれば確実に死が待っている水の上をペトロが歩いたのです。この出来事が意味していますのは、キリストを救い主と信じるものは、主とともに、死の上を歩くことができる、ということです。その者は、死を超克なさるキリストとともに復活の命を生きるのです。
今日の状況を考えるならば、暗闇と死が満ちている世界の中で、キリストがおられる場所だけが「救いの特異点」である、と表現できます。これはまさに、この世の現実とキリストとの関係を示しているのではないでしょうか。救いなき世界に生きる私たちにとって、キリストのおられる所だけが救いです。そのことにペトロは気が付いたのです。
ペトロはおそらく忘我状態で水の上を歩いていたと思いますが、途中で「強い風に気がついて怖くなり」沈みかけた、とあります。その時、ペトロの腕をイエス様はしっかりと掴まれ「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とお叱りになりました。確かにそうです。ペトロは信仰が弱かったです。しかしイエス様は腕を決してお放しにはなりませんでした。信仰の弱いペトロが罪の中に、死の中に沈み込んでいくことを、主はお許しになりませんでした。その腕を掴んだまま死から命の側へと引き上げられたのです。
私たちもキリストを信じていても、いろんな風が吹いてきて、気が付けば信仰が弱まり、この世の現実に埋没していってしまうことがあるのではないでしょうか。
しかしキリストはそれをお許しにならない。沈む者の腕をキリストは強く握られ決して離されないのです。私たちは主を信じきれない弱さがあるのに、決して不信仰や死や暗黒の中に沈まないのです。
今日の物語はイエス様が水の上を歩かれる、という奇蹟物語ですが、もう一つの奇蹟はペトロが沈まなかった、ということではないでしょうか。私たちはこのもう一つの奇蹟に生かされているのです。いかなる嵐の中であっても尊い主の御腕は私たちに伸び、滅びから救い上げられているのです。このことを信じましょう。
祈ります。主なる神様、わたしたちが困難の中にあるとき、どうか主のみ声を聞き分ける力を与えてください。暗闇の中にあるとき、この世のものではなく、キリストのみを見続ける力を与えてください。いついかなるときも、しっかりと主の向かって歩みゆく者としてください。主の御名によって祈ります。