《若い日の安三》
桜美林学園は来年2021年に創立100周年を迎える。100年前の1921年、桜美林学園はどのようにして誕生したのか、その経緯をたどりながら創立者である「夢追い人、清水安三」の人物像を紹介したいと思う。
清水安三は1891年、琵琶湖の西岸、滋賀県高浜町の比較的裕福な半農半商の家に次男として生まれた。しかし、長男の放蕩が原因で実家が没落し、安三は経済的に困窮した少年時代を過ごすことになる。旧制膳所中学(現在の県立膳所高校)に入学するものの、貧しい家庭環境のため学業に集中できず、安三の言葉を借りると“いつもクラスの中で最後から数えたほうが早い順序だった”。そうした安三であったが大きな転換期が訪れる。当時滋賀商業学校の英語教師に赴任したばかりのメルリ・ヴォーリス(1880〜1964)との出会いである。安三はヴォーリスの招きでバイブルクラスに参加し、そこで初めてキリスト教信仰に触れたのであった。ヴォーリスの熱い信仰の影響で、安三は1908年に大津組合教会で洗礼を受け、さらには牧会者としての志を立て、学費を必要としない同志社大学神学部へと進学するのであった。
同志社時代、安三は大きな決断をする。唐招提寺を訪れた際、開祖鑑真和尚の布教への熱意に打たれ、また義和団事件で殉教した米国人宣教師ホレス・ピトキンの逸話を耳にし、自分も宣教師となって中国へ渡ろうと誓うのである。
《中国へ派遣される》
組合教会最初の宣教師として安三は中国へ派遣されることになったが、出発直前、彼は大阪毎日新聞の長谷川如是閑を前に“自分は中国に行って20歳代で小学校、30歳代で中学校、40歳代で高等学校、そして50歳代で大学を建てるつもりです”と公言し、“ホラを吹いたと言うならそれで結構。夢を持って海を渡る”と熱く語った。それがそのまま翌日の新聞に記載されたと聞く。この夢がその後、見事に結実するとは一体誰が想像出来たであろうか。まさしく「夢を見る人、清水安三」の誕生である。
1917年6月、安三は中国の奉天(瀋陽)に着任したが、2年後、“血と汗をぶち込んで”中国の土になる覚悟を決め、妻の清水美穂と二人で北京に移り住む。同年1919年秋、中国北部一帯を未曾有の大旱魃が襲った。この大災害に対して、欧米の宣教団体はいち早く救援活動に乗り出したが、安三も遅れずに立ち上がる。財界の大物渋沢栄一に直訴し、送られてきた義援金をもとに妻や中国の同志と共に大八車を引いて華北部の農村を巡り、飢えに苦しむ子どもたち799名を集め、北京の朝陽門外に急設した救済施設に保護するのだった。旱魃がおさまった翌年、安三は子どもたち全員を故郷へ送り届けるのだが、不幸にして親を失った子どもには養子先を見つけ、最後の一人まで救い続けたのであった。
《北京 崇貞学園での活動》
朝陽門外一帯は、当時、貧困層が暮らす中国最大のスラム地域であり、若い娘たちがわずかな金銭で身売りされる日常を目にした安三は、少女たちを救う道は教育以外にないと強い思いを抱いて、いわゆる読み書きとそろばん、つまり識字教育を行い、同時に自立のための技芸を習得させる無償の学校である「崇貞(ツオンチェン)工読学校」を設立する。1921年のことであった。この年をして桜美林学園の誕生と我々は考えている。その後、工読学校は「崇貞学園」と名称を変え、徐々に教育施設を整備し、1945年の敗戦までひたすら教育活動を続けるのであった。その間、1924年から3年間、安三夫婦は大原孫三郎の援助で渡米し、オベリン大学(Oberlin College)に留学。BDの学位を取得した。
崇貞学園は1939年に日本人部を併設し、文科省の認可を受けた高等女学校が開設されたのである。すると、たちまち日本国内のみならず、植民地であった朝鮮半島から多くの生徒が集まり、中国人、朝鮮人、日本人がともに学ぶ、所謂、「グローバルな学校」として注目を浴びるようになる。安三はとりわけ朝鮮人生徒に対して、朝鮮民族の誇りを失わないようにと心を配り、創始改名を嫌い朝鮮名で生徒を呼び続けたのである。勿論、当局からの非難と嫌がらせは覚悟の上のことであった。こうした安三の献身的な働きを北京の人々は高く評価し、何時しか「北京の聖者」と呼ぶようになっていった。
安三は自らの教育の理念を見事に一句で表現している。「学而人事」である、「学而人事」とはまさに「学ぶことは自分のためではなく隣人のためになすべきものだ」という教えである。つまり、学園は「隣人愛を体現する人」の育成のために存在するということである。この教えは桜美林学園の建学の精神として今もしっかりと受け継がれている。
《桜美林学園設立》
1945年、戦争が終結した年、「崇貞学園」は中国政府に接収され、安三もすべてを失いトランク一つで家族と共に帰国の途に就く。その時安三は54歳。引退してもおかしくない年齢であったが、彼はそこで終わらない。彼には次なる夢があったのだ。その夢とは“敗戦の日本に必要なのは、平和を愛する世代を育てる学校の設立”である。
ある日、焼け跡が広がる東京神田を歩いていると、偶然にも路上で賀川豊彦と出会う。賀川は安三の学校設立の熱い思いを聞き、GHQから管理を任されていた東京町田にある軍需工場の職員寮を紹介するのであった。安三は早速、そこに桜美林学園高等女学校(旧制)を創立する。1946年5月28日、帰国してから僅か数か月の出来事であった。1947年に桜美林中学(共学)、翌年には桜美林高校(共学)が開設される。野球が大好きな安三は、早々と野球部を設立し“いずれ甲子園で優勝する”と豪語するのであったが、“またいつものホラだ”と周囲は眉をひそめる。しかし、桜美林高校野球部は1976年、夏の甲子園大会に初出場し、なんと決勝戦まで勝ち進みPL学園を逆転で負かし初優勝を飾ったのである。安三はその時の心境を歌であらわした。“夢を見よ。夢は必ず成なるものぞ。うそとおもわば甲子園に聴け” そして、ついに1966年、生涯の夢であった4年制大学の創立を成し遂げるのである。桜美林大学は現在、7学群の学士過程と7つの大学院研究科を合わせると約1万人の学生が学ぶ総合大学へと成長した。
この間、安三は常に学校経営の先頭に立ち、学長、学園長を歴任、1988年1月17日、日曜日の説教を終え、“疲れた”とつぶやいて横になり静かに息を引き取った。96歳の生涯であった。清水安三は大きな夢を抱き、それを実現する稀代の教育者・宗教家であった。三谷高康(桜美林大学)
(Kyodan Newsletterより)
岩井 啓(隠退教師)
14年10月27日逝去、83歳。千葉県生まれ。56年関西学院大学大学院卒業。同年より成松教会、カナダ合同教会、鴨島兄弟教会を牧会し、98年隠退。遺族は娘・岩井信子さん。
大坂正治(隠退教師)
20年5月31日逝去、84歳。秋田県生まれ。62年農村伝道神学校卒業。63年より秋南、北上、土佐福音、中濃教会を牧会し、09年隠退。遺族は妻・大坂洋子さん。
補教師登録
赤松真希、髙木政臣
(2020・5・28受允)
森下静香
(2020・5・31受允)
髙根祐子
(2020・6・1受允)
吉居美緒、稲益久仁子、
佐藤彰子
(2020・6・9受允)
大島庄吾、野澤幸宏
(2020・6・13受允)
井田一郎、加藤秀久、
髙橋優美子
(2020・6・19受允)
正教師登録
寺崎 真、寺田時雄、
土井栄子、森美由紀
(2020・5・28受按)
稲葉義也
(2020・6・14受按)
竹花牧人、古谷次郎
(2020・6・19受按) 教師異動
高知 辞(担)見城康佑
〃 就(担)松浦子基
下川口 就(代)黒田若雄世田谷平安
辞(主)長村亮介
〃 就(代)北川正弥
小金 辞(主)今泉幹夫
〃 就(代)三原 誠
東金 辞(担)朴 貞蓮
志村栄光
辞(主)逢坂喜恵子
〃 就(主)朴 貞蓮
四谷新生
辞(主)的場惠美子
〃 就(代)古賀 博
東京信愛辞(担)許 昌範
信濃町 辞(担)柳澤宗光
尾鷲 辞(代)吉川 進
〃 就(兼主)吉川 進
〃 就(担)嶋田百々子
名張 辞(代)加藤幹夫
〃 就(主)敦森幹生
金城 就(担)山本美保子
名古屋中央
就(担)金 元基
南山 就(担)三好祐輝
武生辞(主)佐々木千沙子
〃 就(代)亀井拓也
東京新生辞(主)森 浩
〃就(主)佐々木千沙子
東大和 辞(担)今井栄一
関西学院聖和短期大学
辞(教)原 真和
頌栄保育学院
辞(教)森田喜基
同志社大学
就(教)森田喜基
錦林 辞(主)吉田 慈
〃 就(代)新井 純
〃 就(担)金澤正善
京都 就(担)松田直樹
上鳥羽 辞(主)月下星志
〃 就(主)兼松 豊
今津 辞(主)桑原博文
〃 就(代)山本真司
水口 就(担)松永明夫
平安 辞(担)桝田翔希
〃 就(担)山下 毅
洛陽 辞(主)森下 耕
〃 就(代)入 順子
〃 就(担)桝田翔希
愛和病院就(教)森下 耕
坂出 辞(主)信太聖吾
〃 就(主)山森風花
日出 辞(主)関谷慶太
〃 就(代)工藤俊一
大阪東十三
辞(担)岡本聖美
神戸平安辞(代)松隈 協
〃 就(主)岡本聖美
山手 辞(主)坊向輝國
〃就(兼主)竹内紹一郎
神戸北 就(担)髙木政臣
関西学院大学神学部
就(神)小田部進一
福岡渡辺通
就(担)馬場喜与実
三重 就(担)相浦めぐみ
天城 就(担)吉田 慈
蕃山町 就(担)髙根祐子
油木 辞(代)反町潤平
〃 就(兼主)反町潤平
上下 辞(代)木村弘美
〃 就(代)梅崎須磨子
宇部 辞(代)小畑太作
〃 就(兼主)小畑太作
明治学院高校
就(教)上野峻一
土沢 辞(主)上野玲奈
〃 就(代)中原眞澄
用賀 辞(担)関本信一
広島東部就(担)月下星志
東広島 辞(代)濱田裕三
〃 就(主)濱田裕三
岩国 就(代)海老原道宣
光 就(代)角田 潤
安来 辞(兼担)土肥香織
見附 辞(主)矢吹一夫
〃 就(代)冨井鉄兵
〃 就(担)矢吹一夫
新潟愛泉就(主)大島庄吾
栃尾 就(主)野澤幸宏
巻祝福 辞(代)手束信吾
〃 就(兼主)野澤幸宏
新島学園中学高校
就(教)吉居美緒
越生 辞(代)山岡 創
〃 就(主)佐藤彰子
埼大通り辞(主)川添義和
〃 就(主)稲益久仁子
西千葉 就(担)川添義和
岩城 辞(代)坂田 進
〃 就(代)広瀬満和
根津 辞(主)齋藤 正
東京神学大学
辞(神)藤野雄大
成宗 辞(兼主)藤野雄大
〃 辞(担)藤野美樹
〃 就(主)齋藤 正
東北学院大学
就(教)藤野雄大
仙台南 辞(主)佐藤由子
〃 就(主)加藤秀久
〃 就(担)佐藤由子
磐城 就(主)髙橋優美子
本宮 就(主)井田一郎
大津 就(担)徳田 信
塚口 就(担)赤松真希
日向新生
辞(主)山本爽起子
〃 就(代)竹井眞人
阿久根辞(代)戸田奈都子
〃就(兼主)戸田奈都子
弘前学院聖愛高校
辞(教)石垣雅子
千葉本町就(担)森下静香
2020年8月1日 第41総会期 日本基督教団総会議長 石橋秀雄
第70回九州教区定期総会にて、第42回教団総会への提出議案として可決されました。本議案は、「教憲変更議案」となります。教憲12条に則り、教団新報にて「公表する」こととなりました。
提案理由
日本基督教団は、敗戦前の国家統制の厳しい時代に採ることを余儀なくされた二種教職制度を、教会に相応しい制度であると捉えてきた訳ではありません。1954年の教団信仰告白制定後の1956年の教憲改正、それに続く再度の教憲改正作業(1958年)がなされた頃、“教師とは按手礼を領した者ではないか”との意見が盛んに主張され、その正当性を認める形で“准允を受けた者を「教師補」とする”内容の教憲第9条改正案がまとめられたのでしたが、第12回教団総会(1962年)では二種教職制の解消に至らないままの教憲改正となりました。
しかし、議論は止むことなく更に続き、第15総会期信仰職制委員会(1968年−)は“教師を二種とせず、一種のみとすべき”と結論し、同時に教師に至るまでの「教師補」的制度を置くことが望ましいという方向性を打ち出しました。これをうけた第16総会期常議員会(1969年−)は教憲第9条改正の必要を認める決議をなしました。その後、常任常議員会の下に設置された作業委員会が提出した報告を基に常議員会は、1970年7月、第17回教団総会に二種教職制廃止を目的とする教憲第9条改正を正式に提案することを決定したのでした。その内容は、教憲第9条の条文を「本教団の教師は,神に召され正規の手続きを経て献身し,按手礼を領した者とする」というものであり、これに伴う教規、関連規則の変更を第18回教団総会に提案できるように常議員会に準備させるというものでした。
この改正案は、いわゆる「教団紛争」の激化に伴う第17回教団総会延期などの事情の中で、以後の教団総会で毎回継続審議扱いとされざるを得ず、第25回教団総会(1988年)において、全教区の議員が揃う教団総会開催まで審議を凍結するとの決議がなされ、教団総会議案からは消えることとなりました。しかし私たちが忘れてならないのは、この間30余年の長きにわたって信仰の先達が日本基督教団にとっての、あるべき教職制度を形にしようと真剣な努力を続けて下さったという事実であり、教団全体にも、まことの教会となるために二種教職制度の問題を等閑視することはできないとの認識が保持し続けられていたということです。
1982年からは「三委員会連絡会」(教師委員会・信仰職制委員会・教師検定委員会)が、教師制度や教師検定制度のあり方について検討を重ねるという努力があり、第27回教団総会(1992年)は全教区の議員が出揃う総会となりましたが、残念ながら、以後の教団総会で二種教職制廃止をめぐる本格的な議論がなされる機会は多くはありませんでした。本質議論は出尽くしているであろうとの認識と共に、膨大な議論の集積という事実が、その時点での議員たちをして積極的発言をためらわせたものでしょう。そしてまた、時の経過の中で事実上、継続されてきた二種教職制度ですから、これに無頓着な世代が現れてきたことも要因であったと思われます。
直近、最後の教団的取り組みは、第30総会期第5回常議員会(1998年7月)が提案し、第32回総会(2000年)で可決された「教憲9条を検討する件」でした。これは実に3総会期をかけての検討でしたが、教憲第9条検討作業委員会は2006年2月の第34総会期第4回常議員会に、これ以上の検討作業継続は困難であるとの最終報告を提出、常議員会がこれを承認したことによって、二種教職制度は教団の議題とされることなく今日に至ることとなったのでした。この時点で課題克服を阻んだ要因のひとつは、温存された二種教職制度と共存するうちに、補教師という制度の中に訓練期間としての「有用性」を見出す層が現れてきたことであったと考えられます。
以上のように、教憲第9条に定められた二種教職制度に対する問題意識が、時の経過と共に退行してきたことは否めません。しかし、そうであるからと云って、教会の根幹に関わるこの問題を捨て置くことはできません。先の敗戦後にいち早くこの問題を指摘した先輩方やその後に改正努力を積み上げて下さった方々は、“正教師・補教師の別によって御言の宣教と聖礼典執行が分離されることはプロテスタントの神学から承認されないこと”であり、“二種教職制度とは国の圧力の下に採ってしまった便法”であり、“神の主権よりも国権を上位に置いた過ち” の痕(しるし)であることを明確に見抜いておられたのです。この認識は正当です。便法の上に主の教会が建て上げられるはずはなく、“神の主権よりも国権を上位に置いた過ち”の痕を帯びたまま、まことの教会となり得る道理もないことです。補教師制度に訓練期間としての「有用性」を見出すことも本末顛倒というほかありません。
長い年月にわたる議論の膨大な集積に怖れを抱いているとしても、これより生起するであろう法規相互の整合作業や制度整備にたじろぐ思いに囚われているとしても、私たちは「教憲9条を改正し、伴って関連教規条項を改正する」ことを決断すべきです。私たちは主にのみ従う教会であらねばならず、従ってそれを体現せねばならないからです。
尚、本議案は、第41回日本基督教団総会に提出された議案と内容を同じくする議案です。第66回九州教区定期総会(2016年)において決議され、その後、同年開催の第40回日本基督教団総会に提出された議案は、提案者の責めに帰せられるべき理由なく、教憲12条所定の期間内議案公表手続きに瑕疵が生じたため、上程されることがありませんでした。また、この議案に修正を加え、第68回九州教区定期総会(2018年)において決議され、その後、同年開催の第41回日本基督教団総会に提出された議案は、総会に残された審議時間がわずかであったので、短時間でこの議案を判ずることを避けるため、提案者である九州教区総会を代表する総会議長自ら取り下げました。
この過程で、九州教区総会が願ってきたことは、教団の歩み、ひいては「国家と教会」という、信仰の本質にも関わる重要な主題を内包する本議案がこのまま捨て置かれ、二種教職制度の課題が風化していかないこと、また、かつての教団が真剣に向き合おうとした二種教職制度への検討・協議の場が、いま一度回復されることでした。
教団は、第40総会期教師養成制度検討委員会に二種教職制度の取り扱いを委託しました。同委員会は、①「教憲第9条検討作業委員会(2004年〜2006年)」の検討作業と報告を踏まえる、として同委員会委員長と書記を、②「教憲9条改正」議案の提案者である九州教区から提案の概要と趣旨について聴く、として九州教区総会議長を、③二種教職制の問題について神学的な課題について検討する、として東京神学大学学長を、それぞれ招き、聴取を行っています。しかし、第41回日本基督教団総会において九州教区が議案を取り下げたことを理由として、教師養成制度検討委員会は、同委員会として検討を終了させてしまいました。この判断への疑義は拭えません。けれども、より重要であるのは、同委員会自身が、今後、取り扱いを議長と常議員会に委ねる、としている点です。教憲9条の課題は未だ終了していません。一つの委員会に担わせて終わりとするのではなく、議長や常議員会が検討・協議の場を形作り、積極的に課題の解決に向かって取り組みを進めることが必要です。
以上、わたしたち九州教区総会は、教団における二種教職制度の克服を願い、本議案を提出いたします。
第5回委員会は、感染症拡大防止策として6月23日、オンライン会議で行った。業務報告として、前回了承された開拓伝道資金申請について、当該教会への支援が実行されたことが伝えられた。これを受けて、伝道委員会では当該教会を直接訪ね、教会の状況を聞き、ともに祈ることを大切にしてきたが、今般の状況を鑑み、これを電話にて行うこととした。
同じく、前回了承された資金援助実施要項について最終改定版が提示された。返済事務業務の簡略化を目的とする返済間隔の長期化(最短毎月→半年)と、教区による連帯保証の明確化が明記された。関連で、現状の貸出金利についてマイナス変更の余地はないかとの問い合わせがあることについて協議した。貸出金利(年率1%)が現状の市場金利に対して高いのではないかとの趣旨を受け止めたうえ、本制度が無担保貸付であることを鑑みると、現状利率が高いとは判断されないことを確認した。
伝道委員会では毎年伝道推進室との合同会議を行い、意見交換を行ってきたが、本年の開催見通しは立っていない。
オンライン会議の性質か、利用する側の不慣れか、対面会議で行うような協議にはならない。教団機構改定についての意見交換をしたいと願いながらも、今回は見送ることとした。
(村上恵理也報)
1925年に誕生したカナダ合同教会の前身の一つであるカナダメソジスト教会は1873年に宣教師を日本に送り1874年の静岡教会設立以後、多くの教団所属教会の設立とミッションスクール創設と運営に寄与した。カナダ合同教会設立後も、宣教協約こそ結ばれていないが、相互に宣教師を派遣し今日に至っている。カナダ合同教会の教団に対する誠実な祈りとサポートは、教団諸教会に是非覚えてほしい。
教団に対しては、2017年を皮切りに毎年教団の宣教プログラムのために献金が送られ、2020年には既に350万円の教団宣教プログラム献金が届いている。カナダ合同教会との関連では2018年度、2019年度はカナダ合同教会派遣宣教師である木原葉子宣教師が中心になり、青年キャンプをバンクーバーで行った(木原宣教師は今年2月に召されました。お働きに感謝すると共にご家族に慰めを祈ります)。
この度はカナダ合同教会のパティ・タルボット幹事より、カナダ合同教会所有の日本の資産を現金化し、教団には総額7800万円を3年にわたり送金し、教団の宣教に役立てていただきたいとの連絡を受けた。カナダ合同教会はその宣教理念に基づいて海外の教会、団体に献金を送っている。
6月5日に行われたカナダ合同教会とのオンライン会議に於いては、カナダ側はパティ・タルボット幹事、ジョン・ダーフィー弁護士、ロバート・ウィトマー宣教師、教団からは秋山徹総幹事、加藤誠幹事、道家紀一総務幹事、高田輝樹職員、廣中佳実職員が参加し、献金の趣旨の確認後、教団としてはロバート・ウィトマー宣教師と共にカナダ合同教会の宣教理念を考慮した運用計画を7月末までにカナダ合同教会に提出することで合意を得た。
(加藤 誠報)
〒169-0051 東京都新宿区西早稲田2-3-18-31
Copyright (c) 2007-2025
The United Church of Christ in Japan






