植野 公稔
(学校法人清教学園 法人事務局長)
清教学園の始まりは、ユニークである。太平洋戦争後、人心の混乱の中、河内長野教会の日曜学校に集う生徒たちが「聖書に基づいた学びのできる、自分たちの学校が欲しい」と熱心に祈ったのが、その始まりであった。生徒たち自身の自発的な祈りから学校が作られたという創立の歴史は、世界中を見渡しても、そうはあるまい。
1948年以来、生徒たちは、自分たちの学校を設立するために、「すくど」(焚きつけ用の枯葉)を拾い集めてそれを街中で売り、募金活動を続けていた。1950年、この生徒たちの熱い思いに周りの大人たちも応え、河内長野教会の信徒全員の心に「キリスト教を土台にした学校を作ろう」という夢が芽生えた。そしてそのとき、植田真一と中山昇という二人の人物が神様からの特段の召命を受け、清教学園の創立のために自分自身の人生を捧げるという道を選んだ。
植田真一(1896〜1989)は、米国カンバーランド長老教会の宣教師として来日し河内長野教会の創立者ともなったA.D.ヘール牧師が同教会で洗礼を授けた最後の信徒であり、公立学校の校長をしていた。神様は、清教学園の設立を実現するため、学校での職務経験のある植田を召したのであった。設立運動に加わった植田は、公立学校の退職金の大半を献金するとともに、1950年1月、学園の掲げるヴィジョンを具体化するために設立趣旨書を起草した。この趣旨書により、「神を愛し、人を愛し、而も、真理を追求して知性を高める、真の基督精神の道場たる、生きたる学校を作る」という明確な目標が皆の中に定まった。
その後も多くの人々が献身を重ね、趣意書の起草からわずか1年3ヶ月後の1951年4月、神様は奇跡を起こされ、清教学園中学校の創立が成った。そして植田は初代校長となった。わずか全校生徒49名の小さな学校ではあったが、清教学園は神様の臨在を覚えることのできる喜びの場所であった。
南大阪の田舎に位置する学園は、世の中が高度経済成長の時代になっても、経営が順調に進むのに十分なほどの生徒数を集めることは叶わず、校長の植田にとって学園運営は苦難の連続であった。しかし、植田は校舎建築の現場で自らも作業を行うなど身をもって範を示しつつ、主の言葉に忠実に仕え続けた。そして1968年に再び神様が奇跡を起こされ、清教学園には高等学校を設立する機会が与えられた。
その後、1980年代に入ると、清教学園は全生徒数が1,000人を超える学校に成長し、植田は神様の御業に感謝しながら、現役校長のまま93歳で天に召された。生徒たちと共に過ごすことを好み、気概を持って語りかけ続けた植田の教育姿勢は、生徒たちの魂に情熱の大切さを感じ取らせた。「生徒が看板である」という清教学園の伝統は、いまや地域の誰もが知るところであるが、これこそが植田における信仰の遺産であると言える。
もう一人の創立者である中山昇(1925〜)は、清教学園の設立運動を興した生徒たちを日曜学校で教える教師であった。戦争による荒廃の中、本当の意味での人づくりが必要だと心の底から思っていた中山にとって、「日曜学校の生徒たちの熱い願いは神様が自分自身に与えてくださった道を示すものである」ということを信じるのに時間は必要なかった。また中山の固い意志を知った両親は、1950年1月、息子に相続する予定だった家を教会に捧げると決意し、清教学園の設立運動が大きく前進する一助をなした。
清教学園中学校の創立が成った後は、教育者としての先達である植田のもと、中山は40年近くにわたり教頭として清教学園の教育内容の充実化に身を捧げた。創立理念を体現する中山の授業や礼拝説教は、神様の栄光をあらわす生き方について生徒たちと共に考えるという真摯な内容のものであった。とくに卒業前の中3生たちと共に1か月以上の長い時間をかけて内村鑑三著『後世への最大遺物』を精読し討論する授業は、信仰を持って生きることの大切さを知る契機を生徒たちにもたらすと同時に、主体的にじっくり物事を考え、自分に与えられた賜物を生かせるような人材へと生徒たちを育成していった。中山の教えを受けて育った生徒たちの多くは、「その賜物を生かし、互いに仕え合いなさい」(ペトロ一4・10)という聖書の言葉を胸に深く刻み、その後も広く社会で活躍・奉仕していった。
植田が天に召された後、中山は理事長・校長として清教学園を率い、神様の御心を謙虚に尋ねながら、生徒たち一人ひとりの賜物を生かす教育をさらに推し進めた。中山による学校運営の成果が実った2000年代、清教学園は全校生徒が約2,000人の学校にまで発展し、地域で最も信頼される学校の一つになった。今も中山は「神様は『創る』ことを喜びとされた。創立以来、数々の苦労を耐え忍んだが、『学校を作る』ということに皆と共に身を捧げることによって、私たちは神様から喜びをいただくことができた」としばしば口にする。
皆と共に祈り作り上げてきた清教学園が主の恵みにあずかり存続していること、これこそが中山における信仰の証しであると言える。
(Kyodan Newsletterより)
合田さんの仕事は「宇宙」。現在、JAXA「はやぶさ2」プロジェクト等の地上システム整備に従事している。子ども時代を過ごした米テキサス州ヒューストンにはNASA管制センターがあり、映画のようなコンピュータやロケット、月の石、スペースシャトルの掲示物に触れ、宇宙に憧れた。もちろん、スター・ウォーズの大ファン。
宇宙関係の仕事に就きたいという願いが聞かれたときは、「キリスト者としてこの仕事をしなさい」と言われたように感じた。最初のプロジェクトは、宇宙ステーションに載せるソフトウェア開発で10年以上要した。次はそれを動かす地上システムの設備でさらに10年。気の遠くなるような時間も、夢があって楽しいと合田さんは語る。
キリスト者の両親と共に広島教会で合田さんの教会生活は始まった。幼児洗礼を受け、毎週礼拝に通った。その後、父親の転勤で玉川平安教会、さらにヒューストンの長老教会へと移る。ここでは小学6年生で堅信礼教育があり、同級生が皆堅信礼を受けた。合田さんも帰国して中学2年生で信仰告白をした。「ちゃんと準備しなさい」と親に言われて立ち止まるも、マクラウド宣教師の言葉に背中を押された。「神が決めること。君は信じて任せればいい」。
主日だけでなく平日にも友人たちと夕べの聖書研究会に通ったと言うので、驚いて聞き返すと、「教会に好きな子がいたから」と合田さんは笑う。受験中でも教会に休みに来たし、離れたことは一度もない。
現在は向河原教会の役員を務める。教会も地域も台風で被災し、ボランティアにも忙しい。そんな合田さんの原動力は何か尋ねると、すぐに答えが返ってきた。「伝道したい」。どこに赴くときにも、この思いを持ち歩いている。
向河原教会員。NEC宇宙システム事業部。
6:9小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。
6:10彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」
6:11すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた。
6:12また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、
6:13天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風に揺さぶられて振り落とされるようだった。
6:14天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。
6:15地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴や山の岩間に隠れ、
6:16山と岩に向かって、「わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」と言った。
6:17神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか。
越谷教会の住所は御殿町だ。徳川家康の別荘があった地であり町名が御殿町。越谷で一番地盤の強い地だ。
中越地震の時、十日町教会が避難所となりボランティアセンターとなって、教会堂が用いられているのを見て、災害時には教会を避難所に出来るか、耐震診断を行った。その結果強い建物であることが証明された。
今年の始めに町内会から「避難所にして欲しい」との依頼があり、喜んで承諾した。そして、10月の役員会では、一人暮らしの信徒が召され、資産を教会に寄付されることになったので、これを基金としてソーラーシステムを設置して避難所としての整備をすることにした。
そして台風19号が猛威を振るった。御殿町は大きな橋二つ、小さな橋三つ。橋を渡らなければ御殿町には入れない。私の家の前は中規模の川で、台風接近にともない30時間、市から委託された業者が監視をしつづけた。水位が上がり、避難すべきかどうか、迷ったが、2階に寝れば大丈夫と思って避難しなかった。町内会の要請で、教会に4組のご夫妻が避難してこられた。次の朝、台風が去って、「安心して眠れました」と感謝して帰られた。「震度5を超えて交通がとまったら園児を無理して迎えに来ないでください」と保護者に伝えてある。園舎でもある教会建物には毛布、食料、水など三日分が備えられている。(教団総会議長 石橋秀雄)
6:1また、わたしが見ていると、小羊が七つの封印の一つを開いた。すると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。
6:2そして見ていると、見よ、白い馬が現れ、乗っている者は、弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようと出て行った。
6:3小羊が第二の封印を開いたとき、第二の生き物が「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。
6:4すると、火のように赤い別の馬が現れた。その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた。
6:5小羊が第三の封印を開いたとき、第三の生き物が「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、黒い馬が現れ、乗っている者は、手に秤を持っていた。
6:6わたしは、四つの生き物の間から出る声のようなものが、こう言うのを聞いた。「小麦は一コイニクスで一デナリオン。大麦は三コイニクスで一デナリオン。オリーブ油とぶどう酒とを損なうな。」
6:7小羊が第四の封印を開いたとき、「出て来い」と言う第四の生き物の声を、わたしは聞いた。
6:8そして見ていると、見よ、青白い馬が現れ、乗っている者の名は「死」といい、これに陰府が従っていた。彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた。
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