教師委員会では、9月25~26日、福島の被災地の教師を問安した。25日午後、東北教区放射能問題支援対策室「いずみ」を訪ねた。服部賢治事務局長より「いずみ」の働き(健康相談と検診、保養プログラム、訪問と傾聴)について丁寧に説明をしてもらった。宮城県は甲状腺の検診をする必要がないとしている。それゆえに、「いずみ」が医師の奉仕の下でしていることの大切さを聞くことができた。
その後、福島県に移動して福島教会を訪ね、保科隆牧師に話を聞いた。震災で会堂が崩れてしまったが、教団や教区の支援、全国の募金等により立派な会堂が再建されたことの感謝を述べた。
翌26日は、レンタカーで福島県内の教会と牧師を問安して回った。信夫教会では、佐藤秀吉牧師の話を聞いた。浪江町の出身であり、福島の地で伝道をしている心意気を聞くことができた。特に今、「十字架献金」を募り、教会の上に十字架を建て地域に知られることを願っている。
福島新町教会では、瀧山勝子牧師の話を聞いた。大震災に遭い、これから教会がどうなっていくのかと案じたが、その試練の中で教会が一致して教会の再建を目指すことができた。
その後、小高伝道所と波江伝道所を訪ねた。小高伝道所の建物の中は、震災当日の状態を残している。時計の針が止まっているかのような印象を受けた。どれほど地震と放射能被害が大きかったかを今も物語っている。
最後に、原町教会を訪ねて中野通彦牧師に話を聞いた。赴任する前は放射線への不安もあったが、着任して理解を深めつつ、教会の人たちと共に歩んでいる。こども園の副園長としての働きを担い、じっくり伝道と牧会に励んでいる。
保科牧師の案内により、委員7名で被災地の教会を訪ね、教師たちと共に祈る旅であったことを感謝している。 (古旗 誠報)
2011年3月11日午後2時46分、宮城県沖を震源とする東日本大震災が起こりました。テレビなどではあまり多く報道はされませんでしたが、東北から少し距離のある群馬県でも大きな被害が出ました。桐生東部教会のある桐生の町ではその時、震度5強~6弱を記録しています。
桐生東部教会の会堂は1973年に建てられた旧会堂と1999年に建てられたエレベーターのある建屋が隣り合って建っています。新しい建屋にはエレベーターに加え、男女別のトイレ、身障者用のトイレ、集会室があり、バリアフリーの良い働きをなしてくれています。しかし、震災の時に旧会堂と新しい建屋が別々の揺れ方をしたために互いにぶつかり合い、旧会堂側は大きな被害を受けました。
具体的には、建物同士の接合部分や3階の牧師室、4階の牧師館に被害が出たばかりでなく、1階の駐車場のコンクリートの下では一部土台が沈下した場所もあり、建物と土地の修繕を行うのは大変な状況でした。被災するということは、建物に損傷を受けるだけではなく、その場に生かされる者にとって心身共に疲れや痛みを抱き、どこにもぶつけようのない想いにさせられるものだということを痛感させられました。
しかし、その状況を受け、日本基督教団より「東日本大震災会堂牧師館支援金」の支援を受けられることになり、また全国の教会、伝道所、キリスト教の学校やいろいろな団体などから励ましの声や祈りによる支え、尊い献金による支援をいただき、震災による大変な状況でもなんとか前を向いて歩むことができました。この場を借りまして心から感謝を申し上げます。
あの時受けた支援を力に私たちは信仰の歩みを進めていますが、今度は、災害が起きた時には私たちが被災地の方々を覚え祈ること、できるところから支援を行うことを大切にしたいという想いを持ちつつ歩んでいます。2014年8月に起きた「広島土砂災害」、2015年4月に起きた「ネパール地震」、2015年9月に起きた「関東・東北豪雨」、2016年4月に起きた「熊本地震」などでは教会内で支援献金を募り、被災地にお献げしました。
また、毎年6月に行っている教会バザーでは、売り上げの一部を被災地へ支援献金としてお献げする働きも続けています。それは、桐生の地にある教会として、桐生の町の人たちにも、他の地で災害により大変な生活を余儀なくされている人が現在進行形で今もいるのだということを、発信したいと願っているからです。
共に生きるということが、災害という有事の時だけではなく、災害を経験した私たちだからこそ日常の中でも自然と行えるような私たちでありたいと願っています。
私たちはあの時、たくさんの方々の祈りと想いを受け取り、それが大きな力となりました。そこで得た力を隣人と生きるために用いる力に変え、これからも神様と共に桐生の地での歩みを進めたいと思っています。(関東教区・桐生東部教会牧師 三浦 啓)
9月11~12日、大阪KCC会館5階会議室において今総会期第2回部落解放センター運営委員会が開催された。出席者は運営委員他31名。開会礼拝は宮田誉夫運営委員に説教をしていただいた。
狭山の取り組みとして15教区(東海、沖縄以外)の取り組み報告を聞き、10月31日の日比谷野外音楽堂での狭山市民集会への参加を喚起した。また、狭山第3次再審の最大の山場を迎えているので、教団、全教会・伝道所に狭山再審の署名を依頼する。
各報告、各教区報告など様々な取り組みについての報告、2016年度経常・特別会計報告、監査報告、活動献金報告がなされた。2016年度も多くの活動献金を捧げてくださり感謝であった。それぞれの教区がもっと活発に運動をしていけるように、センターと密接に連携していくことが承認された。
2018年は通年であればキャラバンを行うが、今回は関西で活動者会議を2018年6月頃、関西で行う予定。今迄のセンターの歩みを総括し、今後のセンターの歩みを考える。部落差別問題を理解できる、部落差別問題Q&Aを小冊子にして作成。天皇の代替わりに起こる様々な事と宗教行事について、センターから声明文、または「良き日のために」にコメントを載せる。
新作解放劇を次年度の教団総会で上演することをセンターとして決め、教団常議員会にお願いすることが承認された。
一日目の最後に特別講演として、KCC館長の金成元さんに語っていただいた。次回委員会は2018年2月13~14日、場所は東京、教団会議室にて開催の予定。 (平井克也報)
世界第5位の面積を持つインドは、世界有数の多言語の国である。公用語ヒンディー語に、17の地方公用語、各地の方言。「共通語は英語」と良くいわれるように、今でも英語を補助公用語としている。
多言語の国は、言語感覚に鋭い人を輩出する。インド東北部コヒマ生まれの宮島アトゥーさんの話す日本語を、音声だけ聴いたら、まず外国人と思わないだろう。その話す力の確かさには多言語地域の生み出す天性のものがある。
アトゥーさんは、大学卒業直後の93年、アジア学院(栃木)にやって来た。そこで出会ったのが、ボランティアとして、働いていた牧人氏だった。教師役と生徒といっても、同年生まれの若い二人は、恋に落ちた。アトゥーさんが結婚を決意した時、牧人氏は岩手のカナン学園に勤務しており、アトゥーさんは、来日2番目の居住地を岩手に移して、新たな生活を始めた。
その2年後、牧人氏は召命の心につき動かされ、住まいを横浜に移し、日本聖書神学校に入学した。神学校時代のの4年間、「彼女は、出産と子育てで奮闘していた」(牧人氏)。牧人氏は05年、茨城牛久教会に赴任し、アトゥーさんの牧師夫人としての生活が始まった。12年、牧人牧師は、1910年創立の原町田教会(東京都町田市)に転任した。アトゥーさんにとって、来日4つ目の居住地となる。
夫妻は2人の女の子を授かったが、アトゥーさんは、自分が育ったように、2人を寮制のインターナショナル・スクールに入れた。アトゥーさんに暇が生じたかというと、横浜時代からの教会幼稚園総勢400人の世話が今も続いており、月曜から金曜は横浜で働き、土・日と町田の教会学校の面倒を見る。人気の秘密は、「英語で聖書を読む会」で、大忙しの毎日を過ごしている。「うちは、テレビ持っていない」とアトゥーさんは、笑った。
1972年、インド・ナガランド州コヒマ生まれ。西東京教区原町田教会員。
幼稚園の桜に真新しい竹箒が何本もまとめて立てかけられていた。落ち葉掃きの季節が来たのである。これから毎朝、子どもたちが登園する前に教諭たちが落ち葉を掃き、庭を整えてくださる。そこに新たに落ちる桜の葉を子どもたちは楽しむのである。夕方までに落ちた葉も翌朝にはなく、きれいになった園庭がまた子どもたちを迎える。ただ竹箒だけが少しずつ磨り減って教諭たちの業を伝えている。箒の変化に気づく子はいないであろう。ただ、いつの間にか大きな桜の木に殆ど葉がなくなり、遊ぶ自分の上に青空が拡がっていることに気づくのである。
幼稚園でも教会でも、人々に気づかれない奉仕が多く続けられている。整えられているのが当たり前のように思っていることが、ある日を境にそうでなくなることがある。そして“あの方が担っておられたのだ”と気づき、遅い感謝を持つことがある。また“今度は私が担う番だ”と、静かに決心してくださる方がある。そのようにして多くのことが整えられていくのである。
当番表には書き切れない奉仕、誰にも気づかれない奉仕、どんな場所でも同じように為されていることかもしれないが、そこには見守り、喜んでくださる方が居られるのを私たちは知っている。その方の祝福が注がれ、奉仕に伴う祈りは聞かれている。“主の栄光が表されますように”という只一つの祈りである。
(教団総会副議長 佐々木美知夫)
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