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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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ヨハネによる福音書1・19~34

2017年4月25日

1:19 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、
1:20 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。
1:21 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。
1:22 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」
1:23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
1:24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。
1:25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、
1:26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。
1:27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
1:28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
1:30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
1:31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
1:32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
1:33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
1:34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

2017年4月24日

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。
1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

2017年4月23日

28:11 婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。
28:12 そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、
28:13 言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。
28:14 もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」
28:15 兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。

2017年4月22日

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
《ローマの信徒への手紙8章35〜39節》

東日本大震災・原発事故から6年
 今年もイースターを迎えました。6年前に石巻の教会に赴任して以来、受難節からイースターへと向かう季節は同時に東日本大震災・福島の原発事故を思い起こす季節でもあります。

 震災から6年が経ち、目に見える形での街の復興は進んできました。私が仕えている教会の周りにもマンション型の災害公営住宅が2棟建ち並び、新しい店もでき、街の様子は日に日に変わってきています。

 しかし、その一方で、なお仮設住宅で暮らしている方々が大勢おられますし、愛する人を失った悲しみを抱えておられる方もおられます。原発事故により困難を強いられている多くの方がいます。人々の心の復興にはまだしばしの時が必要です。

 この6年の間にも熊本の地震や水害など多くの災害が起こりました。それらの災害が起こる度に、私たちを突如として襲う苦しみや悲しみ、困難があることを思わされます。

 

救いはどこに?
 けれども、こうした中にあって聖書の御言葉は私たちに語り続けます。それは神が私たちを愛し、キリストを通して救いを与えてくださったという福音です。私たちはどこまでもこの神の愛から引き離されることはないのです。パウロはこう語っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」(35節)。

 ここに挙げられている一つ一つは、パウロが伝道者として実際に経験した苦しみや危機でもありました。パウロの伝道者としての歩みは決して楽な歩みではありませんでした。むしろ伝道者パウロを待ち受けていたのは苦しみや痛みの連続でありました。

 私たちにとって、もっとも大きな苦しみは何でしょうか。先日、祖父母の家を整理していたら、十数年前に亡くなった祖母が愛用していた一冊の聖書を見つけました。その聖書を何気なくめくっていると、その中にしみのついた一枚のメモが挟まっており、そこには次のように記されていました。「人間が本当に苦しむのは、苦しみそのものではなく、今自分が落ち込んでいるところの究極的な苦しみに解決を与えるもののない苦しみである」。

 祖母は何かの本の言葉か、いつかの礼拝で聞いた説教をメモして聖書に挟んでいたのでしょう。祖母の書いたメモによれば苦しみの出来事そのものよりも、それに対する解決を見出すことができない、そのことこそが究極的な苦しみであると言います。確かにそう思います。またパウロもこう語っています。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7・24)。

 このパウロの問いは、罪の結果、死に定められた苦しみに対して、根本的な解決、救いを与えるのは誰なのかという問いです。このパウロの問いは、同時に私たち自身の問いでもありましょう。

 

キリストの愛から引き離されることなく
 この問いにパウロは自ら答えます。誰も、そして何もキリストの愛から私たちを引き離すことはできないのだと。私たちの苦しみに解決を与え、救いを与えてくださるのは、イエス・キリストなのだと。むしろ、イエス・キリストはそれらのものからすでに勝利してくださっている。イースターの出来事は私たちにキリストの完全な勝利を告げる出来事なのです。

 主イエスが十字架に架けられたとき、弟子たちは絶望の淵に立たされました。もはや、この世界は悪の力に支配されてしまったのではないか、神は自分たちを見捨てたのか、神の愛とは何であったのか、自分たちが信じていたことは何だったのか、様々なことが心の中を駆け巡ったことでしょう。

 そして、主イエスの十字架を前にして、主イエスのもとから逃げ出してしまった自分の罪深さと弱さに直面させられました。あの時、なぜ自分は逃げてしまったのだろうか。時間を巻き戻すことができたなら…。自分の無力さを責めるほかない、そのような状態であったかもしれません。

 しかし、時を戻すことはできません。愛する主イエスの死に整理をつけられないまま、自らの弱さと罪深さに苛まれながら、3日目の朝がやってきました。主イエスの墓は空っぽでした。主イエスは確かに復活なさったのです。

 神は、弟子たちを見捨てたのではありませんでした。むしろ、キリストにおいてより深く愛してくださっていたのです。彼らは、神の愛、キリストの愛から引き離されるどころか、より強くその愛に結ばれていたのです。主イエスがすべてのものに勝利してくださいました。弟子たちの、そして私たちの苦しみ、悲しみ、弱さを引き受け、罪と死に打ち勝ってくださいました。

 「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 わたしは確信しています。(中略)わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(37〜39節)。

 私たちは分かちがたくキリストに結ばれており、神のものとされています。そして教会という神の家族が与えられている。どのような力もそこから私たちを引き離すことはできません。

 震災によって悲しみに覆われた地で、キリストと出会い、洗礼へと導かれ、キリストの体なる教会に結ばれる人々が起こされています。そして、新たにキリストの体なる教会がいくつも建てられています。それらの出来事を通して、復活の主が確かにこの地のただ中に立っていてくださることを思います。何が起ころうとも私たちは、キリストの愛、キリストを通して示される神の愛から引き離されることはない、むしろ私たちを御自身の愛の内に招いてくださっています。

 イースターを通して今一度、この恵みに立ち帰りたいと願います。今日も、そして明日も私たちは、キリストの愛と復活の命に生かされているのです。(石巻山城町教会牧師)

断固たる告白に導かれた

東日本大震災救援対策本部長 石橋秀雄

 日本基督教団の東日本大震災救援対策本部の活動を終える時を迎えた。被災地の抱える課題の深刻さは時の経過と共に変わるが、被災者への祈りは終わることがない。しかし主の憐みを受け、被災者支援、被災教会支援と、計画された支援活動を終結する時を迎えた。

 私は2011年3月13日から16日まで幹事たちと被災教会を問安し、3月28日〜31日は、神学生と共に「祈りと奉仕」の旅をなしたことによって二つの力が示された。

 一つは、御言葉が与えられたこと。石巻の津波の凄まじい破壊の中、衝撃を受けて言葉を失って歩く中で、詩編124編8節「わたしたちの助けは天地を造られた主の御名にある」との御言葉が心に響いた。この御言葉を掲げて「東日本大震災に関する議長声明」を出し、この御言葉に導かれて大震災の重い課題に取り組んだ。

 二つ目は、「祈ること」。神学生と共に被災地でのボランティア活動の後、釜石で祈り、大槌町で祈り、山田町で祈り、宮古で祈った。神学生と共に津波の破壊の地に立って涙を流しながら祈った。背負い切れない重要課題を担って行かなければならない責任に押しつぶされそうになっているとき、「この祈ること」が示された。そして「祈ることから始めよう」と毎月11日2時46分に祈りたいと「11・2・46祈りの日」を定め、全国の教会に訴えた。全国の教会で、この日、この時間を覚えて祈り合ってきたことは大きな力となった。

 世界の教会から励ましと支援のメッセージが沢山寄せられ、祈られ、想像もできない多額の献金がささげられた。

 2011年7月に被災教会の被災状況を調べ、被害額を10億円と見積もり、その内5億円を教会堂・牧師館復興支援に、そして被災者支援を5億円として10億円献金を全国の教会に訴えた。この金額は、誰もが不可能と思える額だった。しかし、国内募金10億2926万6077円(17年3月末)と目標を超える献金が、キリスト教学校、福祉施設などの協力をも得て達成した。海外献金は4億811万2041円(同)と多額な献金が与えられ教団の被災者、被災教会支援活動をなすことができた。特に台湾長老基督教会(PCT)は、多額の献金と共に「教団が被災者支援をし続ける限り支援する」と教団を支え続けてくれた。当時PCT総幹事であった張徳謙牧師を、2017年3月10日、震災6周年記念礼拝(主催・救援対策本部)に説教者としてお招きしたことに感動した。

 教団の教会・伝道所の祈りと支えに感謝したい。詩編124編の詩人が苦難の中で生ける主に出会い「わたしたち助けは天地を造られた主の御名にある」との断固たる告白。この告白を告白する教団に導かれたことを主に感謝したい。

 

協働の結実に想う

東日本大震災救援対策本部担当幹事 飯島 信

 前任の加藤誠世界宣教幹事から職務を引き継いだのは、2012年8月だった。

 最初に取り組んだことは、本部が被災地復興支援のボランティアセンターとして設置したエマオ仙台・石巻・ハートフル遠野(後にセンターを移転し釜石と改称)の働きの全容を把握することだった。それは被災地訪問から始まり、雲然俊美本部書記が作成した問安プログラムに沿って、山元克之牧師(花巻・当時)、村谷正人牧師(大船渡)の協力を得ながら被災地の現状を知ることが出来たことは、その後の活動にとって大切な意味を持った。それに加えて、エマオ仙台・石巻・ハートフル遠野を訪ね、ボランティア活動をこの目で見、スタッフの働きを知ることによって、担当幹事として何をしなければならないのかが明らかになった。

 本部がその任を負った仕事は二つある。被災した教会の復興支援と被災地に生きる人々への支援である。まず前者に取り組みつつ、同時に出来る限り後者にも取り組むことが求められた。この両者を推進するにあたって大きな力となったのが国内外の教会の祈りと献金だった。目標の10億を超えた1700余の教会からの国内献金は、おもに会堂の再建に用いられ、UMCOR(合同メソジスト教会海外災害支援部)、EMS(福音連帯宣教会)、RCA(米国改革派教会)などからの4億を超える海外献金は、被災地に生きる人々のためのプログラムに用いられた。

 忘れてはならないことがある。被災地支援の働きに関連して、東京YMCA、台湾基督長老教会(PCT)、新日本フィルハーモニー交響楽団員と仲間たちによる協力である。また、被災教会が負っている教団からの貸付金返済支援のためのチャリティー・コンサートを開催してくれた諸教会の協力である。これらの協力がどれほど大きなものであったかを言葉で表現することは困難である。

 例えば、東京YMCAは、28回に及ぶ「こひつじキャンプ」のほとんど全てにスタッフとリーダーを派遣し、さらに費用面でも協力を惜しまなかった。PCTについて言えば、震災当初の大きな献金に加えて、6回にわたり福島の親子を招き、綿密な準備のもと素晴らしい歓迎をしてくれた。演奏家たちの支援も心に残る。釜石や石巻などの仮設住宅集会室に何度も足を運び、温かな演奏で仮設の方々を包み込んでくれた。チャリティー・コンサートを開催してくれた教会も忘れることが出来ない。演奏会終了後、帰途に着く参加者に牧師自ら声を張り上げ、募金を集めてくれた。

 こうして、文字通り、日本基督教団の総力を挙げて3・11復興支援事業は協働の実りを豊かに結ぶことが出来た。それは、神が成せる業に私たちが祈りをもって参与することが出来たことの感謝でもある。

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