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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4791号】『SAYAMA ~みえない手錠をはずすまで~』 上映会を全国の教会・伝道所で開催しませんか?

2014年2月8日

 石川一雄さんは、どう考えても無実です。しかし今も“殺人犯”という罪は晴れていません。そして事件発生から50年が過ぎました。とても悲しく、残念に思います。「部落差別にもとづく冤罪」など、決してあってはならないことがおこりました。そんな中にあっても一歩ずつ自分の人生を生き、あきらめないで妻・早智子さんと暮らしている姿が映り、感動をおぼえます。今年の1月2日、石川さん夫妻は朝10時に大阪釜ヶ崎の三角公園に来られ、大勢の人の前で、支援してくださる方への感謝と「再審」の訴えを力強く話されました。もう1月2日から活動している石川さんを見、聞き、感動を覚えました。また、多くの人の証拠開示要請により、ようやく50年近く経って検察庁は証拠開示を行ってきました。そのことにより弁護団は裁判所に無実を明らかにする新証拠を提出しました。そのようなことを考えますと、いよいよ大詰めを迎えた感がします。

 センター一同は「今がふんばり時」と考え「狭山冤罪事件」再審要求運動の一つとして、全国の教会・伝道所で、映画『SAYAMA』の上映運動を展開しようと考えました。見られた多くの方から「感動をおぼえた、応援したい」という声がよせられています。ぜひ見ていただいて、感じた思いを伝えてください。

 貸出し期間は9月末までです。貸出し費用は無料です。詳しい案内はセンターホームページをご覧ください(申込用紙もホームページに添付しています)。

日本基督教団部落解放センター 運営委員長 東谷誠

《米国美普教会の海外宣教》

 横浜英和学院は1880年ブリテン女学校として米国メソジスト・プロテスタント教会によって創立された。この教派は美普(みふ)教会と呼ばれ、1828年に米国メソジスト監督教会から分離独立した小規模な教会であった。教会政治、立法の権限がすべて教職にあるとするメソジスト監督教会のあり方に反対し、教職も信徒も平等で監督や長老を設けずに教会政治を行う教会として成立した。

 小教派である美普教会は独自の海外伝道を行う組織を持っていなかった。しかし、米国婦人一致外国伝道協会に参加し協力していた。その中にE.ガスリーがおり、1868年に米国婦人一致外国伝道協会からインドに派遣されていた。ガスリーの父は改革派長老教会の牧師であったが、彼女は美普教会の会員であった。カルカッタのミッション・ホームでH.G.ブリテンと共に働いていたが気候が合わず体調を崩し帰米することになった。1872年帰国の途中に日本に立ち寄り、横浜のミッション・ホームで混血の子どもたちの世話を1878年まで行い帰国した。

 帰国後、美普教会の総会で活動報告を行ったことから美普教会の婦人外国伝道会が組織された。そして総会で米国婦人一致外国伝道協会に支援するのではなく、美普教会として独自の宣教師を派遣することになった。ガスリーが任命されて日本に派遣されることになった。1880年5月ガスリーは日本に向かう途中、サンフランシスコで肺炎になり急死した。

 美普教会にとっては大きな衝撃であった。ここに登場したのがブリテンであった。彼女は1861年頃から米国婦人一致外国伝道協会のカルカッタのミッション・ホームで働き数年間ガスリーと共に働いた経験があった。ガスリーもブリテンを信頼し、同労者と考えていた。ガスリーの後任者としてブリテンが日本に派遣されることになった。

 

《横浜英和の創始者、 H.G.ブリテン(1822-1897)》

 ブリテンは、1822年イギリスで生まれ、幼いときに両親とアメリカのニューヨークのブルックリンに移住した。不幸なことに10歳頃、3階からの転落事故により身体の自由を失った。18歳頃まで病床にあったが、その後、健康を快復した。しかし足に障害を残した。

 その障害があるにもかかわらず海外伝道を志すようになり、1854年に米国聖公会派遣の宣教師として西アフリカのリベリアに向かったが熱帯の熱病にかかり米国に送還された。これらの悪条件にも屈せず、次に1861年に米国婦人一致外国伝道協会の派遣宣教師としてインドに向かった。インドの婦人たちや子どもたちに裁縫や聖書を教え、約18年間活躍し、女性宣教師の英雄的なパイオニアと称賛された。

 しかし1879年頃米国婦人一致外国伝道協会本部の中心人物であるドリマー夫人と意見が衝突し米国婦人一致外国伝道協会から離別した。帰国後ニューヨークの聖ルカ病院で働き、医療訓練を受け次の宣教活動の準備を行った。57歳の年齢になっていた。

 そこへ1880年米国美普教会からガスリーの召天、その後任の宣教師として横浜に派遣されることになった。

 横浜山手居留地48番館にブリテンの学校が誕生した。小さな木造平屋で開校し、生徒は4名、フェリス・セミナリー出身の原田良子(りょうこ)が最初の通訳兼助手となり、後に米国婦人一致外国伝道協会にいた根津えい子が加わった。建物の所有はJ.H.バラ宣教師であり、原田の起用はバラ宣教師によるものであった。

 ブリテン女学校は着実に成長し1882年に生徒は64名となり、大きな校舎が必要となった。1883年ブリテンは私財を投じて山手居留地120番を購入し寄宿舎を建てた。授業は国語と書き方を除いて英語で行われた。ブリテンは教理問答のドリルと旧約聖書の講話を行った。

 初期のブリテン女学校は男女共学で、男子は3分の1くらいであった。当初は混血の子どもたちも入学していた。有島武郎は1884年9月に7歳で入学し、87年に学習院に転出した。

 1882年、青年宣教師F.C.クライン(1857-1926)が来日し、美普教会宣教団の総監督に指名された。26歳の新参監督の下に60代のブリテン宣教師が置かれた。クラインはブリテンの教育方針、財政運営を批判し、男女共学、混血の子どもたちの存在、それにブリテンの宗教教育は福音的であるが聖公会風の姿勢であると批判した。実はブリテンは生涯聖公会の会員であった。また正式の高等教育や神学教育を受けていなかった。ブリテンはクラインとの折り合いが悪く、1885年に辞任した。

 その後も在日したが1897年健康を害し帰国、米国到着の翌日サンフランシスコのホテルで召天した。横浜英和学院にとっては偉大な宣教師であり創立者であった。
(Kyodan Newsletterより)

 1937年、広島女学院高等女学部に入学し、「聖書の時間」の授業で、恩師である岡部先生から言われた次の一言が忘れられない。「これからの人生で何かにぶつかった時、必ずこの時間を思い出しますよ」。

 卒業後、医学部を目指し名古屋に移住。現名古屋市立医大に入学。その生活の中で、1945年、広島に原爆が投下された。友人、知人と全く連絡が取れない中、翌年12月に広島に向かった。瓦礫の山。訪ねた人々は皆亡くなっていた。そう声を詰まらせながら語られた。1947年、名古屋桜山教会にて洗礼を受けた。

 医師免許取得、そして結婚。明治から開業医を務める山形の音山家へ嫁ぐ。医学博士号を取得し、様々な医療行政関係にて活躍をした。しかし女性が社会進出するのが困難な時代、苦労も多かったと言う。特に1965年、山形県初の女性保健所長となった山形県南陽保健所長時代は忍耐を重ねて来たが、一度だけ、男性職員に大声を張り上げたことが忘れられない、とのことである。退職後も小児科医療、幼児教育等、後進育成に努めている。

 夫君の存命中、教会から離れていた。しかし真理を探究する心は持ち続け、八十八箇所遍路巡りや、仏教の学びをしたが、受け入れることはできなかった。夫君が亡くなってから10年。自分の道を問い続けて、そして広島の学校の「聖書の時間」で聞いたあの岡部先生の言葉を思い起こした。そして山形本町教会の門を叩いたのである。

 音山さんは言う。「今思えば、人生の岐路の度、岡部先生の言葉が自分を支えていた。洗礼を受けた時も、現職の時も、再び教会に導かれた時も。幼少期の教育、その基盤を作ることがどんなに大切かを改めて思う」。

 また最後に「色々なことをして来たけれど、辞めた今はただの人。自分にできる支えを教会の中でして行きたい」と語ってくれた。

1925年、岐阜県に生まれる。1947年、名古屋桜山教会にて受洗。2005年、山形本町教会に転会。

 東日本大震災国際会議(仙台・東北学院大学)のために実行委員会が立ち上げられてから1年が経ち、開催まであと2カ月を残すのみとなった。教団がこの種の国際会議を主催するのは初めてのことで、はたしてできるのかどうか、当初不安があった。しかし、1年かけて準備をする中で、道が開けてきた。現時点で、参加者は海外から50名近く、全体で200名近くの会議となる見込みである。

 この国際会議は、東京電力福島第一原子力発電所事故の問題を正面から取り上げる。これは、我々にとって大きな挑戦である。しかしこれは、被災者支援活動の中から出てきた必然であると考えている。地震、津波の被災者に対しては、なんとか支援の手をのばすことができたが、原発事故による被災者に対しては無力感を味わった。問題があまりにも巨大だからである。

 これに対して我々ができる良いことは、海外の諸教会と力を合わせて国際会議を開き、メッセージを発信することであるという結論になった。

 この国際会議にできるだけ多くの方々に参加していただきたいと思う。とりわけ、会議初日は、3・11大震災3周年記念の日に当たり、記念礼拝と記念講演会(姜尚中氏)を一般公開とする。その他に、島薗進氏、近藤勝彦氏という有力な講演者、現地の報告、各国からの報告を予定している。

 ともに実りある会議のために祈りたい。
(教団総会副議長 伊藤瑞男)

13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
13:47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。
13:48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。
13:49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、
13:50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
13:51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。
13:52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
13:53 イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、
13:54 故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。
13:55 この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
13:56 姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」
13:57 このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、
13:58 人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。

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