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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan
 
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【4791号】▼埼玉地区新年合同礼拝▲58教会・伝道所から303名が出席

2014年2月8日

 埼玉地区は60の教会・伝道所の一致と連帯が前進することを願い、年頭に、「地区デー」と名付けて合同の新年礼拝をささげている。

 今年は1月13日、埼玉新生教会を会場に開催された。58教会・伝道所から303名(子ども14名)出席、共に御言葉と聖餐の恵みに与り、讃美と祈りがささげられた。

 コリントの信徒への手紙一13章1~13節より、末永廣牧師(小川教会)が「最もすぐれた道」と題して子どもへのメッセージ、大津健一牧師(アジア学院校長・理事長)が「信仰と希望と愛」と題して説教。

 末牧師は「私たち人間は互いに愛し合いたいと願いながらも、はりねずみのように互いのはりでつつき合っている。しかし、キリストの愛が私たちの心に注がれると、私たちに注がれたキリストの愛によって他者を愛することができる。友だちを大切にすることができる。まことの平和がおとずれる」と語った。

 大津牧師は「東日本大震災で原発事故による放射能対策をどうするか。アジア学院は福島の痛みをもって議論を繰り返してきた。一昨年、召された前理事長はその中で『神さまの御心にかなっているなら、何とかなる。再建のために一緒にやろう』と言ってくれた。御言葉により力を得る経験をした。苦しみの只中でキリストが共にいてくださる御業を見させていただいた。主は私たちと共におられる方、たとえ絶望のうちにいたとしても希望が与えられる。パウロもコリント教会の抱える様々な問題の中で『信仰と希望と愛』こそ、キリスト者が立つべき場所であると示した。神が私たちを愛し、御子を賜わってくださった。その愛において求めていくとき、愛は行為としてあらわされる。キリストの愛に根ざして生きるとき、神と隣人に結びつけられる、愛の共同体が形成されていく」と語った。主にある交わりを深め、地区における宣教の志を新たにされた。

 礼拝後、地区委員長の土橋誠牧師(飯能教会)より、20歳を迎えた4名の成人祝福の祈りがささげられ、喜びを分かち合うときとなった。(松本のぞみ報)

 2・11は、国民の祝日に関する法律で『建国記念の日』とし、「建国を偲び、国を愛する心を養う」と規定されています。この日は神話上の人物である神武天皇が紀元前660年2月11日に橿原に宮を建て即位した日とされる日で、1874年以来『紀元節』として守られてきたものです。それを、1967年に『建国記念の日』とし、祝日とされました。

 けれども、所詮神話です。紀元前660年2月11日が建国の日と考える人は、少なくとも日本の古代史の専門家の中にはいないでしょう。紀元前660年2月11日に、奈良の橿原に、強力な統一国家が建国され、天皇という祭祀と政治を司る大王が存在したと考えることは、通常できないからです。また、統一国家の形成や天皇制の確立、天皇という名称の使用は、紀元645年(一巳の変)から712年(日本書紀成立)の間に行われたと考えるのが一般的ですから、紀元前660年2月11日が歴史的に根拠のある日ではありません。所詮神話にすぎません。神話上の日にちと、神話上の人物を用いて、「建国を偲び、国を愛する心を養う」ことが求められた。これが、『建国記念の日』です。

 それにもかかわらず注意を要するのは、神話がわたしたちの日常生活の中で語られ用いられようとする時には、何らかの意図が存在してしまうということです。その意図に賛同できるならば、その人にとってその意図は感謝と喜びとなるでしょう。しかし、その意図に違和感を感じるならば、その人にとってその意図は苦痛となるでしょう。

 この国は、神武天皇によって建国されたわけでもなく、その日が紀元前660年2月11日であるわけでもない。けれどももし、「(神武天皇の)建国を偲び、(天皇を中心とした)国を愛する心を養う」という意図が、「公」によって行われるのであるならば、その意図に違和感を感じる者にとって、その日は苦痛の日となります。ましてや、その天皇が信仰の対象になったり、宗教的傾向を持つ祭儀を司るならば、なおさらです。

 わたしたちは2・11を迎えるに当たって、教会の重要な課題、「信仰の自由」を高らかに宣言いたします。また、日本国憲法に保障された「信教の自由」が堅持されるよう祈り求めます。

 各地の集会の上に、主なる神の祝福を祈ります。
(社会委員会 釜土達雄)

橋本 通氏(隠退教師)
 13年7月10日逝去、91歳。兵庫県に生まれる。東部神学校に学ぶ。46年住吉教会に赴任、大阪長野教会、富田林教会、河内長野教会、千里教会、千里ニュータウン教会を経て、03年まで北大阪真愛教会を牧会し、隠退した。
 遺族は息・橋本満さん。

 

藤井俊夫氏(隠退教師)
 13年12月5日逝去、74歳。大阪府に生まれる。65年同志社大学大学院を修了。同年鳥取教会に赴任、小山教会、堅田教会、松山城北教会、諫早教会、水口教会、青谷教会、倉吉教会を経て、00年まで津山教会を牧会し、04年隠退した。
 遺族は妻・藤井純子さん。

 

関 茂氏(隠退教師)
 13年12月28日逝去、77歳。東京都に生まれる。60年日本聖書神学校を卒業。同年北千住教会に赴任、下ノ橋教会を経て05年まで千葉南教会を牧会し、同年隠退した。
 遺族は妻・関京子さん。

 石川一雄さんは、どう考えても無実です。しかし今も“殺人犯”という罪は晴れていません。そして事件発生から50年が過ぎました。とても悲しく、残念に思います。「部落差別にもとづく冤罪」など、決してあってはならないことがおこりました。そんな中にあっても一歩ずつ自分の人生を生き、あきらめないで妻・早智子さんと暮らしている姿が映り、感動をおぼえます。今年の1月2日、石川さん夫妻は朝10時に大阪釜ヶ崎の三角公園に来られ、大勢の人の前で、支援してくださる方への感謝と「再審」の訴えを力強く話されました。もう1月2日から活動している石川さんを見、聞き、感動を覚えました。また、多くの人の証拠開示要請により、ようやく50年近く経って検察庁は証拠開示を行ってきました。そのことにより弁護団は裁判所に無実を明らかにする新証拠を提出しました。そのようなことを考えますと、いよいよ大詰めを迎えた感がします。

 センター一同は「今がふんばり時」と考え「狭山冤罪事件」再審要求運動の一つとして、全国の教会・伝道所で、映画『SAYAMA』の上映運動を展開しようと考えました。見られた多くの方から「感動をおぼえた、応援したい」という声がよせられています。ぜひ見ていただいて、感じた思いを伝えてください。

 貸出し期間は9月末までです。貸出し費用は無料です。詳しい案内はセンターホームページをご覧ください(申込用紙もホームページに添付しています)。

日本基督教団部落解放センター 運営委員長 東谷誠

《米国美普教会の海外宣教》

 横浜英和学院は1880年ブリテン女学校として米国メソジスト・プロテスタント教会によって創立された。この教派は美普(みふ)教会と呼ばれ、1828年に米国メソジスト監督教会から分離独立した小規模な教会であった。教会政治、立法の権限がすべて教職にあるとするメソジスト監督教会のあり方に反対し、教職も信徒も平等で監督や長老を設けずに教会政治を行う教会として成立した。

 小教派である美普教会は独自の海外伝道を行う組織を持っていなかった。しかし、米国婦人一致外国伝道協会に参加し協力していた。その中にE.ガスリーがおり、1868年に米国婦人一致外国伝道協会からインドに派遣されていた。ガスリーの父は改革派長老教会の牧師であったが、彼女は美普教会の会員であった。カルカッタのミッション・ホームでH.G.ブリテンと共に働いていたが気候が合わず体調を崩し帰米することになった。1872年帰国の途中に日本に立ち寄り、横浜のミッション・ホームで混血の子どもたちの世話を1878年まで行い帰国した。

 帰国後、美普教会の総会で活動報告を行ったことから美普教会の婦人外国伝道会が組織された。そして総会で米国婦人一致外国伝道協会に支援するのではなく、美普教会として独自の宣教師を派遣することになった。ガスリーが任命されて日本に派遣されることになった。1880年5月ガスリーは日本に向かう途中、サンフランシスコで肺炎になり急死した。

 美普教会にとっては大きな衝撃であった。ここに登場したのがブリテンであった。彼女は1861年頃から米国婦人一致外国伝道協会のカルカッタのミッション・ホームで働き数年間ガスリーと共に働いた経験があった。ガスリーもブリテンを信頼し、同労者と考えていた。ガスリーの後任者としてブリテンが日本に派遣されることになった。

 

《横浜英和の創始者、 H.G.ブリテン(1822-1897)》

 ブリテンは、1822年イギリスで生まれ、幼いときに両親とアメリカのニューヨークのブルックリンに移住した。不幸なことに10歳頃、3階からの転落事故により身体の自由を失った。18歳頃まで病床にあったが、その後、健康を快復した。しかし足に障害を残した。

 その障害があるにもかかわらず海外伝道を志すようになり、1854年に米国聖公会派遣の宣教師として西アフリカのリベリアに向かったが熱帯の熱病にかかり米国に送還された。これらの悪条件にも屈せず、次に1861年に米国婦人一致外国伝道協会の派遣宣教師としてインドに向かった。インドの婦人たちや子どもたちに裁縫や聖書を教え、約18年間活躍し、女性宣教師の英雄的なパイオニアと称賛された。

 しかし1879年頃米国婦人一致外国伝道協会本部の中心人物であるドリマー夫人と意見が衝突し米国婦人一致外国伝道協会から離別した。帰国後ニューヨークの聖ルカ病院で働き、医療訓練を受け次の宣教活動の準備を行った。57歳の年齢になっていた。

 そこへ1880年米国美普教会からガスリーの召天、その後任の宣教師として横浜に派遣されることになった。

 横浜山手居留地48番館にブリテンの学校が誕生した。小さな木造平屋で開校し、生徒は4名、フェリス・セミナリー出身の原田良子(りょうこ)が最初の通訳兼助手となり、後に米国婦人一致外国伝道協会にいた根津えい子が加わった。建物の所有はJ.H.バラ宣教師であり、原田の起用はバラ宣教師によるものであった。

 ブリテン女学校は着実に成長し1882年に生徒は64名となり、大きな校舎が必要となった。1883年ブリテンは私財を投じて山手居留地120番を購入し寄宿舎を建てた。授業は国語と書き方を除いて英語で行われた。ブリテンは教理問答のドリルと旧約聖書の講話を行った。

 初期のブリテン女学校は男女共学で、男子は3分の1くらいであった。当初は混血の子どもたちも入学していた。有島武郎は1884年9月に7歳で入学し、87年に学習院に転出した。

 1882年、青年宣教師F.C.クライン(1857-1926)が来日し、美普教会宣教団の総監督に指名された。26歳の新参監督の下に60代のブリテン宣教師が置かれた。クラインはブリテンの教育方針、財政運営を批判し、男女共学、混血の子どもたちの存在、それにブリテンの宗教教育は福音的であるが聖公会風の姿勢であると批判した。実はブリテンは生涯聖公会の会員であった。また正式の高等教育や神学教育を受けていなかった。ブリテンはクラインとの折り合いが悪く、1885年に辞任した。

 その後も在日したが1897年健康を害し帰国、米国到着の翌日サンフランシスコのホテルで召天した。横浜英和学院にとっては偉大な宣教師であり創立者であった。
(Kyodan Newsletterより)

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