第5回常議員会で承認されたガイドライン(但し、聖句引用を除く)
Ⅰ 宣教とは何か
1.宣教とは、人々に主イエス・キリストの十字架と復活の福音を宣べ伝えることを通して救いに与らせ、主の民を形成する喜ばしい業である。
2.「宣教」は、第一義的には、従来の言い方で言う「伝道」のことである。
3.「主の民」とは教会のことである。
4.教会は「公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む」(「日本基督教団信仰告白」)。
5.この宣教の業は、聖書を通して与えられる神の言葉に基礎を持つ。
Ⅱ 宣教の必要性
1.父・子・聖霊なる三位一体の神は、真の神として、すべてのものによって礼拝されるべきお方である。
2.三位一体なる神は、御自身の内に愛による豊かで喜びに満ちた交わり、すなわち、永遠の命を持っておられるばかりでなく、その命にわたしたち被造物をも与らせようと心を決めておられる。
3.この神を礼拝することこそ、永遠の命に与ることであり、人間にとって最高の喜びである。
4.真の神を礼拝するこの喜びに一人でも多くの人を、また、一日も早く与らせることが主の御意志である。
Ⅲ 宣教の可能性
1.主の民は、その御意志の実現のための道具として選ばれている。しかも、主の民にとって、宣教は自らが既に与っている喜びの共有であるから、宣教の業自体も喜びである。
2.宣教のための時間が主の民と全ての人々に与えられている。
3.普遍的な礼拝を目指す宣教の業の真の、また、究極的な主体は、主なる神御自身である。
4.普遍的な礼拝は終末において完全に成就する。
Ⅳ 宣教の内容
1.宣教において教会が宣べ伝える真の神は、聖書が証しするお方、すなわち、世を愛し、主イエス・キリストの十字架と復活において、世を救い、その救いを完成にまで至らせるお方である。
2.そのように救いが必要であるのは、この世と、そこにいる私達が創造主として全てのものの存在と生の根拠である真の神を忘れ、罪の中にあるからである。
3.救いには、信仰を通して、「今ここで」与ることが出来る。しかし、この信仰による救いは、主の助けによって、完成にまで至るはずのものである。
Ⅴ 宣教の方法
1.宣教は具体的な人間に対して行われる。従って、宣教の方法については、地域・時代・状況などの要素が考慮に入れられる必要がある。
2.日本、また、個々の地域の抱える固有の問題を意識しつつ、有効な方法を模索していくことが重要である。
3.その原点にあるのは、聖書に聞き、聖書を生きることである。従って、礼拝、特に説教の充実、および、信仰の生活の充実、すなわち、信仰を心の中の事柄にとどめることなく、日常生活において具体化していくことが決定的に重要である。
4.「愛のわざ」を通して真の神が宣べ伝えられる道も存在するが、それは、本来の神礼拝の裏づけを持ち、上(Ⅴの3)に述べた仕方で霊的に強められた主の民によってこそ、意味深い仕方でなされるものである。
(長谷川洋介報)
福島県内に住む親子を対象とする短期保養プログラム「こひつじキャンプ」の第2回目が3月9日~11日に東京YMCA妙高高原ロッジにて行われた。
このプログラムは救援対策本部主催、会津放射能情報センターと東京YMCAの共催で実施されており、放射能汚染の心配のない土地での休息のときを提供することによって、子どもたちの『命』を守ることを目的として始められた。震災からちょうど1年を迎える日程で実施された今回のキャンプは、6組19名の参加者が与えられた。前回に引き続いての、リピート参加の家族の姿もあった。
前回と同様に、参加者が自由に選択できるプログラムを用意し、子どもたちは雪遊びをしたり、カードゲームを楽しんだり、雪上観察会に参加したりした。保護者は室内でのプログラムに参加したり、部屋でのんびりと過ごしたりと、個々、自由に2泊3日の時を過ごした。
放射能汚染のために福島では雪遊びが出来ずにいた子どもたちが、雪深い妙高の雪原の中、目を輝かせて遊びまわる姿、そしてそれを見つめる保護者の笑顔を見ることができたことは大変大きな喜びであった。
また、前回のキャンプで出たニーズを反映し、保護者を対象にしたプログラムとしてアロマテラピーなどを盛り込み、大人も楽しめるキャンプとなった。
今回アロマテラピーを担当した人は、臨床心理士であった。メンタルケアを必要としている保護者にとっては、心の痛みを打ち明ける良い機会が与えられと思う。
1日目、2日目の夜に開かれた親睦会では、放射能に関する情報交換がなされたり、不安な思いを打ち明けたりした。また今後のキャンプを充実させるための意見を聞くことも出来た。 常に放射能のことを考えて生活せざるを得ない中にあっても、子どもを守っている『親』の強さを感じずにはいられない3日間であった。
帰りのバスの中で迎えた『3月11日14時46分』には、祈りと黙祷を持って、参加者と共に過ごすことが許された。
(杉山真里菜報)
2006年3月東北教区宣教共働研究所が、山形新庄最上地区の宣教将来像に関する研究報告を教区常置委員会に提出しました。これをきっかけとして、合同に向かう機運が高まり、新庄合同教会設立委員会発足、新庄3教会合同、現住陪餐会員56名の教会の誕生という成果につながっています。
文章にすると簡単なのですが、この設立委員会の歩みは容易なものではありませんでした。自分たちの教会、そこでの礼拝、伝道は無に帰すのか、そのことを思うとき教会の合同という課題は素直に受け止めることはできないものです。
2006年から50回を超える会合が開かれました。どこかがその他を吸収するのではなく対等な合併を目指した、芳賀欽一設立委員長はそう語っています。それぞれの教会の背景や伝統を極力残す、という方針を貫いて、委員会は丁寧な話し合いを続けました。時間と労力と何よりも忍耐が新たな新庄教会を生み出すこととなったのです。
4月1日合同した新庄教会最初の礼拝は、司式新庄教会多勢眞教師、説教東北教区総会議長高橋和人教師によって行われました。ルカによる福音書2章1~7節を基に高橋議長は「数える」という行為を通して御言葉について語りました。
皇帝アウグストが人口を数えるのは自らの力を確かめ誇示するため、だが神様はわたしたちの嘆きの声を数え上げてくださる。その声に応えて神様は独り子を世に賜った。今私たちがすべきことはその恵みを「一つ」と数えること、高橋議長はそう語りました。
礼拝後にもたれた愛餐会で、これから自分たちも恵みを数えて行きたいという声が挙がりました。困難を潜り抜け、恵みを数えることのできる教会が生まれたことは何よりの喜びです。
同日総会が開かれ、新庄教会は正式に新たな歩みを始めることとなりました。
新庄教会のこれからの教会形成の上に祝福があるようにお祈りしたいと思います。
(上野和明報)
2012年3月20日午前10時30分より、東北教区宣教部主催、「3・11東日本大震災1周年の集い」が仙台青葉荘教会で開催された。二部構成になっており、第一部の中心はシンポジウム、第二部は「灰の礼拝~レントの中の3・11を覚えて」であった。
シンポジウムでは、川端純四郎(仙台北教会員)、佐藤啓子(郡山教会員)、前北未央(教団救援対策本部職員)、片岡謁也(教区宣教部委員長)の4名が発題を行った。
川端氏は、震災後教会員の安否を求めて遺体安置所まで行った経験を通して、言語に絶する状態の遺体の中を、主イエスが歩まれている思いがした。自分の信仰が根底から揺さぶられ、神学者として神の全知全能を、家族を失った人にどのように語るべきか自らが問われていると語った。ボランティアについては、苦しむ者と共に苦しむために駆け付けた若者たちを見直すと共に、平和であるからこそボランティア活動が出来ること、そして一年たってボランティアに出来ることと出来ないことが明らかになった。教会は政治、社会に関わる人材を育てるべきと結んだ。
佐藤氏は3・11を通して家族が教会の交わりによって助けられたことと、福島を去るに至った経緯を語った。震災翌日に長女は一人で進学先の関西に向かった。不安の中、東神戸教会の川上盾牧師が電話で長女に連絡を取り、家族にも無事会えたことを連絡した。長女も家族も救われた思いがした。次女が敬和学園高校に在籍している関係で、福島の公立校の教師である夫に、敬和学園への転職の話が来た。福島を去ることに後ろめたさを覚えたが、「痛みを感じる人を育ててほしい」と夫の同僚から励まされて引っ越しの決断をしたと語った。
次に前北氏は「名もなきぼろ雑巾」として、一ボランティアとしての思いと経験、そして感謝を伝えた。震災後、家族で支援を祈り求め、十分に話し合ってボランティアを行うことを決め、その延長線上に現在の教団での働きがある。エマオ周辺の教会が、自らも被災していながら快く教会を宿泊所として開放した。そのことによって初めて教会に触れた青年たちの心に小さな変化が起こった。エマオでの日常を紹介し、何と素敵な伝道と締めくくった。東北教区の働きに、ボランティアを代表して感謝を述べた。
最後は片岡氏により震災直後から3月15日に被災者支援センターエマオが立ち上がるまでの経緯が語られた。エマオという建物があったればこそ支援活動が開始できた。松本芳哉館長やジェフリー・メンセンディーク主事の信仰的判断、近隣教会の女性たちの援助、教区や学校のボランティア派遣について感謝を述べた。
質疑応答を経て、司会の布田秀治宣教部委員は、4人の発題に共通することは「いかに人に寄り添うか」であると結んだ。
続いて、小西望東北教区副議長、高田恵嗣支援センター長、邑原宗男奥羽教区議長、雲然俊美教団書記、加藤誠救援対策本部幹事からそれぞれ短い挨拶があった。
2時46分の黙祷の後に礼拝がささげられた。聖書はアモス書9章11~15節、ヨハネによる福音書2章19~22節であった。高橋和人東北教区総会議長は聖書の重要な主題の一つが「復興」であるとし、イスラエルが求められたのは「現状」の回復ではなく「人間」の復興である。これは神でなければ出来ない復興で、私たちが神のものとされるのが聖書の語る復興である。被災地に住む者は余りにも多くの「死」と向き合い、答えの出ない時間を過ごしている。しかし、私たちの復興の根底を支えているのは主の復活の出来事である。それ故に信仰、希望を頼みとして私たちはこの出来事に関わると語った。
参加者は190名。他教区からの参加者も20名を数えた。
(加藤誠報)
聖霊の働きなしには
復活された主に出会い、主から「地の果てまでわたしの証人となる」との約束をいただいた教会は、祈り準備を重ねて50日目、ペンテコステの祭りの日に、突然、天から激しい風のような音、炎のような舌によって、聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしました。この事実をもって教会の出発の出来事とします。
教会の初めを、ペンテコステの出来事においていることは意義深いことだと思います。主の十字架の死による贖いと復活の事実を証しする宣教が、それに伴う聖霊の働きなしには生きた実りある働きにはならないことをわきまえているからにほかなりません。
教会に足を踏み入れ、聖書の言葉にふれる多くの人は、聖霊のことが分からない、と言います。確かに、霊は風のようなもの、息のようなもので、目には見えないし、その確かな実態を捉えきることはできません。
しかし、しばらくするうちに教会生活に慣れ、先輩の祈りにふれるうちに、聖霊という言葉の便利さをおぼえて、安易に聖霊の名が呼ばれ、まるでアラジンの魔法使いを呼ぶかのように、聖霊が乱用されることがあるのではないかと恐れます。わたしたちは「父と子と共に礼拝される聖霊」そのかたに向き合い、その働きと力に与り、地の果てまで証人となる使命を果たしているでしょうか。
永遠の命へと解き放つ働き
ローマの信徒への手紙を通して「聖霊の執り成し」について確認したいと思います。ローマの信徒への手紙は8章でクライマックスに達しますが、そこからまるで堰を切ったように “霊”という言葉が多く出てきます。「キリスト・イエスによる霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」(2節)、に始まり、「霊に従って歩む」とか、「神の霊によって導かれる者」、「キリストの霊」といったように、それまで散見するだけだった“霊”がここにいたって、急に光があたり、霊の働きの重要性が語られるのです。「キリストの霊をもたない者は、キリストに属していません。キリストがあなたの内におられるなら、体は罪によって死んでいても“霊”は義によって命となっています」と、罪と死に閉じ込められているわたしたちの命を、永遠の命へと解き放つ力強い霊の働きが語られます。
正しく霊と交わりを持ち
3章21節以下の、この書の中心主題、「信仰義認」は、「律法の行いによるのではなく、キリスト・イエスを信じる信仰によって義とされる」と語られますが、ここで語られる“信仰”、これは人間の側の人格の中心においておこる主体的な応答作業です。しかし、義とされるという恵みは“賜物”であって“霊”という神の側の働きと力なしには実現されないことを教えられるのです。
ここではっきりさせておかなければならないことは、パウロが“霊”と語るとき、それは、霊感のような人間の精神に内在する霊的、神秘的な働きではなく、キリストの霊、神の霊であるということです。その霊は、主イエス・キリストの生涯を通して表わされた人格、十字架の死と復活を通して成し遂げられた贖いの業、罪の赦しと和解と自由を含むすべてのキリストの現実が現実として生きて働き、その力を発揮する事態を表わしています。従って、「霊に従って歩む」は、「キリストの霊を持つ」ことであり、「キリストがわたしたちの内にいる」ことを意味するのです。“霊”が機械的なものではなく、このように人格的なものであることを知ることがなければ、霊に従って歩むことは、ただやみくもに自分に都合のいい助けを求める宗教と異なりません。
しかし、正しく霊と交わりを持ち、霊に従って歩むとき、「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶ」、神との真に信頼に満ちた関係が回復され、その中で生きる新しい生が始まります。
“霊”による執り成しが語られるのは26節で、「同様に“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せない呻きを持って執り成してくださるからです」と記されています。すべての被造物が虚無に服して呻いていること、また、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも体の贖われることを待ち望んで心の中で呻いていることが語られて、その後で、霊も言葉に表せない呻きをもって執り成し、弱いわたしたちを助けてくださる、と慰め深い言葉が語られます。
霊の執り成しの祈りとして
“霊”はまさに一個の人格的なものとして、共に呻き、わたしたちの言葉に表せない祈りを神に聞き届けられる祈りへと変えて、執り成してくださるのです。
ここで霊は「助ける」、働きをすると語られていますが、この助けは、共に苦難を引き受けることによる助けであって、一時的に手を貸す、助言をする、といった類の助けとは明らかに異なる語が、原語では使われています。下からの叫びを遠くの高みより聴きとるのとは違って、わたしたちの側に立って、わたしたちと同じ心になって、言葉にならない祈りを取り上げ、神に聞き届けられる言葉に翻訳して、わたしたちのために祈ってくださるのが霊です。
ヘブライ人への手紙では、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(5章7節)と記されています。
そのキリストの祈りは、「霊の執り成しの祈り」として、今、わたしたちのただ中でわたしたちのためになされていることを知るのです。主イエスの名によって祈るわたしたちの祈りは、まさにこの霊の執り成しに与っているということです。
霊の祈りを聞く霊が
興味深いことに、霊の働きは二つに分かれています。弱いわたしたちを助けて執り成す霊、「アッバ、父よ」神に向かって呼ぶことを促す霊、これは明らかにキリストの霊です。ところが、「イエスを死者の中から復活させた方の霊」があって、この霊が「あなたがたの死ぬはずの体を生かしてくださる」というのです。そして、霊が言葉に表せない呻きをもって執り成す時、「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます」と、霊の思いを聞く霊があるのです。このような父と子の「霊の交わり」の中にわたしたちは入れられていることによって、弱いわたしたちは「命をもたらす霊の法則」の中に生きることができるのです。
今日のわたしたちの教会の現状を顧みる時、わたしたちほど御霊の交わりに枯渇し、必要としている者はいないのではないかと思わされます。創り主なる聖霊よ、来てください。
秋山 徹 (上尾合同教会牧師)
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