9月2日(日)夕方から、3日(月)昼にかけて、西中国教区・広島北分区にある三次教会および「高暮ダム」において、「西中国教区・部落解放現場研修会」がもたれた。参加者は講師を含めて28名で、今回は「強制連行」という「国家」による差別と迫害の現場を歩く旅であった。
高暮ダムは、広島県北部、島根県との県境に近い、神之瀬川をせき止めて貯水湖を造り、そこからトンネルを通して、下流に建設する神野瀬・君田・森原の各発電所に水を供給し発電する目的をもって建設されたダムである。着工は1940年3月、貯水開始は1944年……泥沼の日中戦争からアジア太平洋戦争にかけての国内労働者不足の時代であり、それを補う目的で、朝鮮半島から強制的に労働者を連行し工事に従事させた。その数は2、000人とも4、000人とも言われており、実数や犠牲者の数は明らかになっておらず、作業現場や宿泊所(飯場)の様子も、現地の人たちが垣間見た証言が伝えられていただけで、実態は闇に葬られたままに、工事は1945年に一旦中止され、'46年再開、'49年に竣工式を終えている。
その高暮ダムの労働者の事実が明らかにされるのは、1994年(!)にダム近くの山中で遺骨が見つかり、'96年に周辺の学校教職員を中心に「高暮ダム強制連行を調査する会」が発足して、現地での聞き取り調査と渡韓して実態調査を行なってからである。今回は、その「調査する会」の<RUBY CHAR="実国","じつくに"><RUBY CHAR="義範","よしのり">さんをお招きして、2日夜に三次教会での講演会、3日は朝から実国さんの案内で、高暮ダム現地での研修会を行った。高暮ダムへの道は、現在でも狭く、車がすれ違うのがやっとの難所である。また前週の大雨によりダムの下流側からの道が土砂崩れで通行止めで、大回りして上流側からの現場到達となった。前日の講演で現場の過酷な労働実態を聞いていたが、現地を見て、それが決して誇大な形容ではないことが分かる。冬は雪深い山奥に、大した機材も運搬手段もない状態で、大きなダムを造るには、過酷な労働環境の中に「強制連行労働者」を閉じ込めた状態でないと建設できないことは一目瞭然。飯場があったと言われるのは、谷底の川べりで、逃げ出すのは難儀な場所。それでも逃亡を試みる朝鮮人労働者に対して、現地の人たちが、その逃亡に保護を加えて手助けをし、食料や地下足袋を与えて逃げる方角を教えたという証言には救われる思いがする。それは、ダムの底に沈む予定になった家を追い出され、それだけではなく、柱や漆喰や屋根の藁などがダムの目詰まりを起こすので、出て行く時には、自らの家に火をつけて出て行かねばならなかった現地の人たちの、国家に対するせめてもの抵抗だったのではないだろうか。そして今は、「調査する会」が建立した「謝罪碑」の前で、現地の人たちが自主的に追悼集会を行っているということであった。
(金澤正善報)