賢者の贈りもの
マタイによる福音書2章1〜12節
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
東京神学大学学長
神代真砂実
愚かで幼稚な賢者
今日どれだけ読まれているのかわかりませんが、O・ヘンリというアメリカの作家が1905年に書いた有名な短編小説に「賢者の贈りもの」というのがあります。
ニューヨークの片隅のアパートに、ジムとデラという若い夫婦が住んでいました。クリスマス・イヴの日、デラはジムのためにプレゼントを買おうとするのですが、何しろ貧しくて、どうにもなりません。何とか愛する夫にふさわしいプレゼントをと考えたデラは、自分の髪の毛(それは、膝まで届くほどに長い、量も色も素晴らしい髪で、この夫婦の自慢の種の一つでした)をかつら屋に売って、お金を作り、ジムのためにプレゼントを買います。買ったプレゼントというのは、ジムとデラのもう一つの自慢の種であるジムの金の懐中時計(ジムの家に代々伝わってきたもの)につけるプラチナの鎖でした。
夕方、仕事から帰ってきたジムはデラを見て、奇妙な表情を浮かべます。プレゼントを買うために髪の毛を売ったと説明するデラに、ジムは自分の買ってきたプレゼントを渡します。それは宝石をちりばめた見事な櫛のセットでした。今は失われてしまったデラの髪にぴったりのものでした。そして、その櫛を買うために、あの懐中時計を売ってしまったとジムは言います。−これが「賢者の贈りもの」という話です。
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既に「賢者の贈りもの」という題そのものが、与えられている聖書の箇所との結びつきを示しています。ここで言う「賢者」というのは、元の題名から、すぐにわかりますが、あの「東の方から」来た「占星術の学者たち」のことです。ですから、「賢者の贈りもの」というのは、占星術の学者たちが献げた「黄金・乳香・没薬」のことです。
O・ヘンリは、この話をこう締め括っています。「彼ら[ジムとデラ、あるいは、この二人のような人たち]こそ東方の賢者なのだ」(引用は全て新潮文庫版から)。つまり、あの、ジムとデラの夫婦こそが、また、そのような人たちこそが「賢者(学者)」と呼ばれるにふさわしい人々なのだと言うのです。
ジムとデラのことを作者は「わが家の一番大事な宝物を、最も賢くない方法で、たがいに犠牲にした、アパートに住む二人の愚かな幼稚な人たち」と呼んでいます。けれども、その「愚かな幼稚な人たち」こそが、あの学者たちにも勝って「最も賢い」と言うのです。一体、どうしてなのでしょうか。
作者は学者たちの贈り物について、賢い人々が選んだものであるから、賢く考えられたものであったろうということを言っています。「おそらく、重複した場合には、他のものと交換できるという特典を持っていたであろう」と言います。しかし、ジムとデラの贈り物は交換できません。贈られた物は、お互いにとって明らかに最もふさわしいものであり、また、それぞれに自分のいちばん大切なものを犠牲にして、手に入れたものであるからです。ジムとデラが学者たちに勝るところがあるとすれば、それは、二人の贈り物がかけがえのないものであって、取り替えられないものであったということです。
愛から出る正しい愚かさ
ここから、二つ目のこととして、さらに、こう言えるでしょう。ジムとデラのしたことは、クリスマスの出来事を最もよく映し出すものであった、と。
ジムとデラは、「わが家の一番大事な宝物を、最も賢くない方法で、たがいに犠牲にした、アパートに住む二人の愚かな幼稚な人たち」でした。しかし、クリスマスは、神が「一番大事な御子を、最も賢くない方法で、犠牲に」された出来事であったのではないでしょうか。
父なる神は、いちばん大事なもの、愛する独り子を犠牲にされます。クリスマスは、主イエスの地上での生涯の出発点であって、十字架は、まだ先のことであると思われます。しかし、既に第1章の21節で、夫ヨセフに向けて天使が、生まれてくる子供を「イエス」と名づけるようにと言ったとき、天使は「この子は自分の民を罪から救う」とも言いました。生まれる前から、十字架の死を通して、私たち人間を罪から救うことが定められていたのが、主イエスなのです。ですから、クリスマスが既に神様が「一番大事な御子を、最も賢くない方法で、犠牲に」された出来事であったのです。
それは私たち人間の目には、愚かにしか見えないものでしょう。自分を犠牲にしなくても、神なら、もっと別な仕方で人間を救うこともできるのではないかと考えるかもしれません。それにもかかわらず、この愚かさは正しいと言わなければなりません。愛から出ているからです。ちょうど、ジムとデラが、互いに深く愛し合っていたので、それぞれが、自分の持つ一番よいものを犠牲にして、いちばん相手にふさわしいものを与えようとしたように、神様は、私たち人間を深く愛しておられるので、いちばん大切な御子をさえ惜しまれずに、犠牲として、私たちが最も必要としている、罪からの救い、神様とのかかわりを与えて下さったのです。そのようにして、神様の愛は、私たち一人一人に向けられています。
献げられる者となる
それでは、私たちは、御子を頂いた者として、何を献げたらよいのでしょうか。自分の一番たいせつなものを献げるというのは、何度もできることではありません。さらに言えば、神様と私たちとのかかわりは、ジムとデラのように、釣り合ったものではありません。神様がして下さった、御子という贈り物に釣り合うような、私たちの、神様への献げ物などはないのです。
しかし、神様の愛に応えるには、まず、神様を愛するのが第一であるに違いありません。そして、それがさらに具体的な形に表されるのであれば、それが、どのような形であるにしても、私たちが恵みに応えていこうとする限りは、その献げものは正しいと言えるでしょう。
クリスマスは、神様が私たち人間への愛のゆえに、自らの最も大切なものを犠牲にされた出来事です。そして、それを受け入れ、信じる私たちにとってふさわしいのは、自分自身もまた、何かを献げられる者となることではないでしょうか。そのときには、たとえジムとデラにはかなわなくても、私たちも「賢者」となるでしょう。