共に集う
大阪教区議長
尾島信之
私が牧会する教会の礼拝堂は、著名な建築家による設計のため、多くの見学者が訪れる。中には大学で建築を学ぶ若い人もいて、独特の丸みを帯びた壁、珍しいドアの取っ手等を熱心に写真に収めていかれる。各地から足を運んでくださるのは嬉しいが、残念なのは礼拝堂が寂しいこと。「建築士を志しているのに、使われていない建物を見て学びになるのか。建物の美しさだけでなく、機能的に使われているか知ることも大切ではないか。そのためには、日曜日に来るべきでは」との私の意地悪な言葉は、そっと飲み込む。
私たちの教会は、礼拝堂を使えない経験をした。「コロナ禍」が始まってから、断続的に合計1年間、教職者とその家族が礼拝をささげる様子を、インターネットを用いて配信した。文字通り礼拝を守ったことは確かだが、会衆がいない礼拝堂に、その都度なんとも言えぬ違和感を覚えた。先日、数年ぶりに来たミッションスクールの生徒が差し出した「礼拝出席ノート」に印字された「インターネット配信の場合は、教会の人からのサインは要りません」の文字に驚きつつ、この違和感の正体を見た気がした。
「まず第一に挙げなければならないのは、近年、礼拝の空間においてカギを握る場所として強く意識されるようになってきた集いの空間の重要性である。キリスト教共同体は礼拝のために集うことを必要とする。そして、まさにこの『共に集う』という行動そのものが、会衆にとってもっとも重要なひとつの行為とみなされるようになってきている。…『集いの空間』に関しては、教会建築をデザインする上で注意をはらわなければならないのである」(「キリスト教の礼拝」J・F・ホワイト著/越川弘英訳)。礼拝堂へ集えることに感謝。
(大阪教区議長)