落ち穂拾い
関東教区議長 福島 純雄
教区活動とは直接関係のない話になるが、今私はルツ記の説教をしている。飢饉を避けてモアブへと避難したナオミではあるが、そこで夫も亡くし二人の息子にも先立たれて、「自分は神様によってうつろにされた」と嘆く。そんなナオミが、全く血のつながりなどない息子の妻ルツとの絆を起点として、空っぽではなくなっていくというのがこの物語であるが、その大切な契機になっているのはルツが落ち穂拾いをすることである。人様がもはや拾いもしない落ち穂を集めて生きていこうとする。それがすべてのスタートなのだ。
私はこの物語を通して、私たちにも落ち穂拾いをするフィールドはどこにでもあるのだと教えられた。それは世の人々が見向きもしない何かを拾う畑である。十字架につけられたイエス・キリストは、家作りが捨ててしまった不要な石であるが、私たちはこの方を要石として拾う者である。イエス様こそ私たちにとっての落ち穂かもしれない。
こうしてキリストという落ち穂を拾う者たちが集まった教会は、今度はまた誰かに落ち穂を拾わせることのできるフィールドになっていけるのではあるまいか。ひとりが落とす穂では余りにも小さいが、ある人数の者が集まる教会の落とす落ち穂は、誰かを助け得るものとなる。
レビ記19・9に「穀物を収穫するときには、畑の隅まで刈り尽くしてはならない」とあるが、教会も教区・教団も刈り尽くしてしまう「畑」になってしまってはいないだろうか。
過日の宣教方策会議において、教団がどういう教会になりたいのか、そのビジョンがほしいとの声が幾つもあがった。落ち穂を拾う者であるからこそ、また誰かにも落ち穂を拾わせてあげられるような、そんな教会でありたい。