フェリス女学院創立者メアリー・エディ・キダーの歩み
-近代日本における女子教育の先駆者-
田部井 善郎
(フェリス女学院中学校高等学校校長)
日本で最初の女学校であるフェリス女学院は、1870年9月、アメリカから来日した最初の婦人宣教師メアリー・エディ・キダーによって始められました。横浜の居留地39番(山下町)で医療活動をしていた長老派教会の医療宣教師ヘボン博士の施療所の一室で、同夫人の生徒たち女の子も含む数名を引き継いで英語などを教えたのがその始まりです。当時の日本は明治時代になってまだ3年目、近代化が始まったとは言え、キリスト教の信仰もまだ禁じられていた中、しかも女性が教育を受けることなどは想像もできない時に、キダーはキリスト教に基づく女子教育を始めたのです。
1834年バーモント州ウォーズボロに生まれたキダーは、十代の頃から海外伝道を希望していましたが、その夢が叶ったのは35歳の時でした。明治の終わり頃にプロテスタントの宣教師が相次いで来日しましたが、その一人であるアメリカのオランダ改革派教会(のちの米国改革派教会)から派遣されたブラウン博士は、これからの近代日本にとっての女子教育の必要性を母国で説き、当時の改革派教会の外国伝道局に対して教師の派遣を要請しました。そして、当時プライベートスクールの教師であったキダーの篤い信仰と若い頃からの外国伝道への強い使命感を評価しての進言でした。
キダーの始めた小さな教室には、噂を聞いて女の子たちが集まるようになりました。中には、女性は勉強する必要がないという親を説得しながら勉強したいという希望を通した子もいました。やがて人数が増えてきたこともあって、当時の神奈川県の副知事であった大江卓氏の理解を得て、当時紅葉坂にあった県の官舎に教室が移りました。一方、その間に、アメリカの教会から財政的な援助を受け、現在の山手178番地に本格的な寄宿舎のある校舎が建築されました。1875年6月1日、新校舎の落成式が盛大に行われ、翌年には学校名も正式に「 アイザック・ フェリス・セミナリー」となりました。
フェリスという校名は、当時日本の近代化のために渡米した留学生や使節団などを受け入れ、またキダーをはじめとして多くの宣教師を海外に派遣していたアメリカの改革派教会の外国伝道局主事、アイザック・フェリス並びにジョン・フェリスの父子に因んで名付けられたものです。そしてそれ以降、本格的な学校となったフェリス女学院は、同じく改革派の婦人外国伝道局によって維持されるようになっていきます。
その教育理念は、キリスト教信仰に基づき、よき家庭人・社会人の育成、将来の教育を担う人材の養成、そしてそのために必要な高い知識と教養の習得でした。以来、フェリスからは日本の近代女子教育の創設期に活躍する多くの教育関係者が育ち、特に、現在の大学にあたる高等教育に関わる人たちが数多く活躍します。その教育理念どおり、キダーから始まった日本の女子教育は、さらにフェリスに学んだ卒業生たちによって大きく切り拓かれていったのです。
キダーは、1873年、同じく日本で伝道活動をしていた長老派の宣教師ローゼイ・ミラーと結婚します。改革派と長老派という立場を越えての結婚でしたが、その後ミラーは夫人の事業を深く理解し、自ら改革派に籍を移しました。やがて新校舎での教育は次第に評判が高くなり、日本各地から進んだ教育を受けるために女子たちが集まるようになりました。遠くは長崎から牧師の妻となるためにきた者、また進歩的な保護者の薦めもあって学びにきた生徒などもいました。
こうした献身的な努力でフェリス女学院を生み、その基礎をつくったキダーは、1881年その運営を二代目校長ユージン・S・ブースに委ね、夫と共にキリスト教伝道者としての道を歩み始めました。とくに1888年から1902年までの岩手県盛岡での厳しい寒さの中での伝道は有名です。さらには夫妻で日本各地でキリスト教を伝えるかたわら、キダーは家庭や子供向けのキリスト教の話を掲載した小さな月刊誌『喜の音』を発行するなど、特に日本の女性と子供たちの地位向上に尽くしました。そして、1910年6月、76歳で東京で天に召されました。
キダーの日本における41年間にわたる足跡は、フェリス女学院の創立者としてだけでなく、一人の女性宣教師としての歩みと言えます。2009年、横浜は開港150年を迎えました。それは日本のプロテスタント伝道150周年でもありました。そして2010年フェリス女学院は創立140周年を迎えましたが、それは日本の女子教育誕生140周年でもありました。
現在の日本の女子教育の礎が一人の若いキリスト教女性宣教師の篤い信仰と教育への情熱によってつくられたことを覚えるとともに、私たちフェリス女学院はそれを誇りとして、これからも継承していきたいと思っています。