わたしが深沢教会に赴任して3か月目に「イエス様への信仰を告白されましたので、バプテスマの準備をよろしくお願いします」と、ある教会員から言われた。わたしは一瞬何のことかと戸惑ったが、すぐにわかったのは、その会員が礼拝に出席し始めた青年に礼拝後少しの時間を用いて、自分の救いの体験を通して、主と共に生きる喜びを伝え続けていたということだった。
その青年は、わたしとの準備を経てバプテスマを受けるに至った。このパターンが、わたしたちの教会における「日常」であったことを知ったとき、とても新鮮な気持ちにさせられた。
この経験を通して、わたしは伝道をする「器」について考えさせられた。牧師が専ら伝道に励むために神から遣わされていることは当然でありながらも、牧師「だけ」が伝道の担い手ではないことを、深沢教会の信徒伝道の実際から改めて確信させられたのだ。
わたしが現在遣わされている深沢教会は、約50年前から「信徒が伝道する教会」というテーマを掲げ、決して牧師まかせにしない伝道のスピリットを現在でもなお保ち続けている。信徒と牧師が主にある深い信頼関係のうちに連携しながら、主イエスの宣教命令に応えたいという思いを、あらゆる機会を通じて互いに確認している。
信徒が「伝道したくなる思い」を応援することが牧師の重要な務めであるし、牧師にとっても、信徒のそのような祈りと支えが最高の励みとなることを確認する。この連鎖が結果として、「伝道は楽しくてしょうがない!」と何のてらいもなく断言できる教会の歩みへと導かれているのだと実感している。
最近、教会のウェブサイトを見た他教会の方々が、深沢教会を見学し、礼拝の喜びを共に味わう数々の機会をもらっている。文字だけでは伝えきれない喜びを皆さんと共有したいと願っている。それが教団における伝道推進のための、わたしたちの教会ができる一助であると信じて止まない。
深沢教会ウェブサイト(http://www.fukasawa-c.com/)