初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。・・・言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。《ヨハネによる福音書 1章1・2節、14節》
神と共にあった言の奇跡
「初めに言があった」。この「言」は、神御自らであったと言われます。しかしこの言は、「神と共にあった」。神御自らであった言が、神御自らでありながら、神と共にあった。ここに、神の言の奇跡があります。
神と共にあったということは、向きを変えて見れば、私たちと共にいてくださった、そして今も私たちと共にいてくださるということです。
神である方が神であると同時に、私たちと共にいて、「神と共にある」ものになってくださる。神ならば、本来賛美されるべき方ですが、神と共にあって、賛美するものとなってくださる。もし私たちが、神を賛美する者であるとするなら、この方と共に、勇気をもって賛美する者にさせていただいていることにほかならないのです。
クリスマスの奇跡
クリスマスは、祝いの時です。どのような祝いでしょうか。それは、神の言が肉となって、私たちの間に宿られたという奇跡が起こったことを祝う祝いです。
神の言が肉となられたことによって、私たち肉なる者が、本当は聞こえないはずの神の言を聞き、見えないはずの父なる神のひとり子の栄光を目に見ることができるようになり、手に触れることのできないはずのひとり子に触れることができるようになった。
ひとり子を目に見、そのみ言葉を耳に聞き、その体に触れてみたら、その方は、恵みに満ちておられ、また、真理をもって礼拝しなければならないと言われる父なる神を礼拝するのに依るべき真理に満ちておられたのです。言が肉となり私たちの間に宿られた、そのことによって、私たちが、神の恵みを知るものとなり、ひとり子の名によって父なる神に祈ることができるようになりました。
万物は言によって
全てのものは、神によって造られました。そして全ての出来事は、神が主催者です。この天地は、初めに神が創造されたものです。でも、初めの創造だけではありません。この世界で行われていることの全ては、神がそれを始め、神がそれを導き、神がそれを終わらせたもうのです。
しかも神が創造し、神が主催したもう業の全ては、あの言によってなされたと言うのです。言が肉となってみれば、それは、恵みと真理とに満ちていた。それならば、言によってなされた全てのこと、天地創造も、歴史の導きも、ありとあらゆることが、恵みと真理によって行われたし、今、行われています。
私たちは、その恵みと真理に信頼して、歴史を受け止め、歩むことができます。
恵みと真理の証
全てのことは、神御自らがなさいます。天地創造も、歴史を始めることも終わらせることも。私たちの救いもまた、私たちが何か良いことを行わなくてはならないのではなく、全て神御自らがなさいます。残されているのは、ただ、神がなしたもう救いを証することだけです。なぜ証されなければならないか。私たち人間は、自分を照らす光が輝いているのを理解しないからです。私たちを照らす光があり、この光こそ私たちの命であることを、私たちは教えてもらうことなしには、わからないのです。
私たちは、救われなければいけません。命を与えられて生きなければなりません。そして私たちを救うみ業はすでに行われているのに、私たちはいっさい、神の言について知りえず、神の言を信じることも、神の言を命として求めることもできないのです。
それだけではない。神の言が、私たちを生かし、照らそうとして世に来られたのに、世は神の言を受け入れなかったとされています。これでは私たちは、救われねばならないのに、救われようがない。ただ、神によって生まれた人たちだけが神の言を受け入れました。その人たちだけに、神の子となる資格が与えられました。それは血筋によらず、肉の欲にもよらず、ただ神の選びによって神の子とされる資格です。
私たち自身で、神の子とされることを選ぶことはできません。選びも神のみ業であって、神にしかできないことです。私たちの救いを始めることも、成就させることも、これを告げ知らせることも、神御自らなさることです。
私たちを神の子となさることは、神御自ら決定されることであって、私たちが決めることのできるものではない。神が私たちを選びたもうのです。私たちが選ぶことは、できません。それなのに、私たちはそのことを悟らず、神の言を拒んで、受け入れません。いよいよ私たちは、神の子であることから遠ざかり、救いから自分を排除してしまっているのです。そのことを知らずに。
ついに、言は肉となった
そのように私たち人間から拒まれ、受け入れられずに、結局神がなさったことは、何であったか。それは、神御自らである言が、肉となって、私たちにも見えるものとなり、聞くことのできるものとなり、手で触れることのできるものとなったということです。
主は、悟ろうとしない私たちに救いを悟らせるため、あらゆることをなさったのです。神は、光を証させるために、預言者をお遣わしになりました。洗礼者ヨハネが、その代表です。人々は、ヨハネの言葉を聞きましたが、受け入れませんでした。むしろ、ヨハネは拒絶されたのではなかったでしょうか。言は世の光であって、世の闇の中に輝いていました。様々な形で世に現わされていましたが、世はこれを悟りもせず、受け入れることもしませんでした。神はこの拒絶を忍耐しておられました。あらゆることをなさって、拒絶され続けた。その末に神のなさったことは、神御自らである言が、肉となって、私たちの間に宿りたもうことでした。本来ありえない神の言の受肉ということ、その奇跡が、とうとう行なわれたのです。
初めに言があったところから、言が肉となって、私たちの間に宿りたもうたところまで、天地創造から今日までの全歴史を通じて、神は私たちを救うためにあらゆることをなさり、そのあらゆることを、私たちは受け入れず、神に忍耐を強いた。
だからこの結論には、「ついに」という言葉をつけなければなりません。ついに、言は肉となって、私たちの間に宿られたのです。
(東京神学大学学長)