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日本基督教団 The United Church of Christ in Japan

【4640号】未受洗者配餐をめぐって

2007年12月8日

日本基督教団 総会議長 山北宣久

苦渋にみちた「勧告」に至るには

聖餐にはバプテスマを受けた信徒があずかるものとする。・・・準則第8条①

*苦渋の常議員会決議

第35総会期第三回の常議員会は苦渋にみちたものでした。
それは「北村慈郎教師に対し教師退任勧告を行う件」を上程し、審議し、可決したことをさします。
この議案上程と同時に、案件を撤回するよう要望書が寄せられ、議決後も抗議が届けられています。もっとも、常議員会はこの重要議案をきちんと扱い、教団としての筋を通すようにとの要望もありましたが。
ここでは、この件につき反対する意見に対してコメントするようにとの依頼に従うこととします。

*闇討ち、騙し討ち!

前回の七月常議員会にて北村慈郎教師が紅葉坂教会にて未受洗者への配餐を行っていることを報告し、聖餐の在り方に多様性があってよいと主張されました。
これは議長の要望に応じてなした懇談会での発題内容です。
ここで、あの懇談会は「自由な議論の場として設定されたものであって記録もとらない」というものであった。それなのに言質を取る仕方でいきなり勧告をするとは無謀、横暴でまさに闇討ち、騙し討ちだとの意見が抗議として渦巻いています。
あの懇談会は常議員会の中で開催されたものであり、議案ではありませんが、議事であり、非公開ではありませんでした。従ってその発言は重さと責任を伴うものです。
また記録をとらないというのも議事録として残さないということであって、公的な発言と受止められるものであることはいうまでもありません。
猪突、唐突といいますが北村教師の発題は、長きにわたる未受洗者への聖餐執行についての持論を公表したものであり、各方面で語っていたものを改めて肉声で聞いたということでした。

*なぜ、今なのか?

「未受洗者への配餐はすでに執行している教会は少なくない。なのにたった一回の発題をもとになぜ一罰百戒的に取り扱うのか」という問いも多くあるようです。
確かにこの問題性は承知していました。
しかし、当面する様々な議決すべき事柄に押されて常議員会で正面から取り扱うことができないでいたことは議長として詫びなければなりません。
しかし決して等閑していたのではありません。ここ三年連続、教区総会への議長挨拶では「正しい聖礼典の執行」を訴えつづけ、議場でも質疑をなしてきました。
特に本年度の議長挨拶では未受洗者が聖餐に与ることは「明確な教憲・教規違反です。そして教会としての生命を奪い、教職同士や教会間の信頼関係を損ねる重大な問題として放置しておくわけにはいきません。当事者の自制を促すとともに、正しい聖礼典の執行を巡り、措置をとっていく所存です。」と書きました。
また昨年の教団総会での議長総括の中で、「荒野の四〇年」と題して十二項目の神への懺悔を教団がなすべき点の一つとして「聖礼典が正しく執行されない現実があること」を挙げました。
むしろ遅すぎたくらいです。性急でも、拙速でもなくもっと早くから取り上げるべきことだったのです。
ようやく信仰職制的な重要問題を取り上げられるような教団になったというのが偽らざる現実でしょう。

*もっと議論してから

聖餐をめぐってはかねてよりいろいろな立場があり、意見、考え方が多様なのだから、それを捨象しての「勧告」はいかにも無茶だとする声も満ちています。
聖餐論はいろいろあっても良いのです。しかし、執行はいけません。あの懇談会も聖餐論をめぐって協議したのではなく、執行してしまっていることをめぐって問題を扱ったのでした。
合同教会として多様な考え方を持つ教団ですが、それら多岐にわたる意見を出し合った挙句、明確に陪餐者を規定したのです。
ですから未受洗者が洗礼へと導かれ、共に聖餐に与れる喜びを目指して伝道していくことにこそ私たちは祈りと力を結集し、合同教会としての多様性を生かして行きたいのです。
「何を言っても良い教団」は「何をしても良いという教団」ではありません。
自己抑制をしながら、信頼関係を構築していくべきでしょう。
自分の意見を通すのであれば規則変更を提案すべきです。そしてそれまでは現行規則に従うというのがルールではないでしょうか。
それをしないで信仰告白と教憲、教規という枠組みを逸脱して何とも思わぬというのは我侭と言われても仕方ありません。
ですから何としても未洗者への配餐を直ちに停止していただきたいとの願いをこめ、あるべき姿への立ち帰りを訴えているのが「勧告」決議案なのです。

*不一致、分裂の危険が

この「勧告」を強行すれば折角ここまで一致してきた教団を不一致にし、分裂への新たな一歩を招きかねないではないかと危惧があるのは確かです。
しかし不一致と分裂の危険を招致するのは誰でしょう。未受洗者への配餐を執行する人々ではないでしょうか。
多様性とは「何でもあり」とは全く違います。教団はその信仰上の組織として教憲・教規によって立つ教会です。
「聖餐に関する問題は、規則で云々すべき事柄ではない」と主張されますが、信仰共同体としての教会は教憲・教規によってその具体的姿を現しているものです。
だからこそ、信仰職制委員会も未受洗者への配餐は違法であることを答申し、仮に教会総会や教会役員会が決定したものであってもその決定は無効であると否定しているのです。
どうか違法聖餐を正当化しないでいただきたい。全体教会たる教団の一員としてルールの中で行動していって貰いたいと切望してやみません。
しかし、それは信仰の良心に基づくもので譲れないというならば残念ながら「異なる教会の在り方を主張、実践されるのであれば日本基督教団という教会においてではなく、独自の教会を建てるべきであります」という「勧告」の内容になってしまいます。

*常議員、議長は越権

そもそも常議員会は一教職の退任を勧告することなどできるのかといわれます。
戒規にかけることは教師委員会の掌握事項ですから常議員会も、総会議長もできません。しかし、勧告はできます。今迄も重要な声明や決議をなし教会の内外に公にしてきています。
また議長は教規三九条⑤で「常議員に諮問し、また発議すること」と総括行為が明記されています。
教団が教会でありつづけられるか否かの大切な問題を見て見ぬ振りをするなら議長の怠慢は責められることになります。

*教会が立てた牧師なのに

教会担任教師を立てるのは各個教会の決定事項であり、教師と教会、信徒は相互の信頼と契約に結ばれたものである、なのに教団が介入し「退任」を求めることは各個教会の自主性を著しく侵害するものであり、招聘制を破壊するものだとの声も湧き上がっています。
教会の自主性とは何でしょうか。まさか悪しき各個教会主義のことではないでしょう。自主性はアナーキー、無制度、放縦とは同義ではないはずです。
そもそも「教師」を立てるのは、各個教会ではありません。教団が立てた教師を各個教会が招聘するのです。
ですから自主性の侵害などというものではなく、教団が立てた教師が枠を超えてしまうなら、究極の任命者であるキリストに対して責任を果たしていく仕方で各個教会に向き合うべくその教師に自制を求め悔改めを促していくのです。
洗礼を無意味化し、福音をヒューマニズムに流し込み、差別と区別を曖昧にしてしまうことから免れるためにも、この未受洗者への配餐問題をはっきりさせましょう。
日本基督教団は何よりも先ず教会であるのですから。
主よ我らを憐れみ導き給え! 神よ我らに勇気を与え給え!

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