【4920号】恵泉女学園 創立者 河井道 

真の校長は愛の神さま

松井 弘子

(恵泉女学園史料室運営委員)

「恵泉女学園の真の校長は愛の神さまです」と言い続けた河井道(1877-1953)の精神は今も恵泉女学園中学・高等学校、恵泉女学園大学・大学院の教育の中にしっかりと生きている。

 「河井道は生涯、教会を大切にし、学生・生徒、教師・職員、保護者、また世界の友への熱い祈りと一身を捧げて人々を愛した。女性の自立、自主、神の前に立つ人格存在としての自覚を促す教育者であった」と、河井道の教えを受け家族同然として暮らし、現在恵泉女学園特別顧問の一色義子は語る。

 恵泉女学園は海外の宣教団体の支援を受けて設立されたミッション・スクールではなく、日本人キリスト者河井道が、信仰に基づいて設立したクリスチャン・スクールである。

 伊勢神宮の神職の家に生まれた河井道は、明治維新の改革で父が職を失い、幼い日に北海道へ移住した。函館で宣教師サラ・スミスと出会い、札幌に同行し、スミス女学校(後の北星女学校)で学んだ。札幌でのスミスの薫陶、新渡戸稲造の指導が河井道の生涯を方向づけたといえる。津田梅子の推薦もあり奨学金を得て新渡戸稲造夫妻と共に渡米したのは彼女が21歳の時であった。ブリンマー大学を卒業し帰国した1904年秋、河井道は津田梅子が創立した女子英学塾(後の津田塾大学)の教壇に立つと同時に日本YWCA設立委員となった。日本YWCAの日本人初の総幹事に就任したのが35歳の時。総幹事としての14年間、日本国内ばかりでなく欧米、アジアへ会議や視察、講演に飛び回り、関東大震災後の復興支援やYWCA修養会・全国大会の実施に多忙を極めた。

 河井道が日本YWCAを辞し、学校教育に使命を見出した時、渡辺百合(後の一色百合)、森久保壽等、河井道の女子英学塾の教え子たち(卒業生)は、祈りつつ募金活動をし河井道を支援した。「小さき弟子の群れ」と名付けられたこのグループはやがて維持会となり、現在の恵泉フェロシップの働きにつながっている。

 1929年9名の生徒で恵泉女学園は開校した。YWCA時代の友人フローレンス・ウェルズや、北海道時代の知人、末光績、本郷新等も教員に加わった。

 河井道が著した自叙伝(My Lantern 1939,日本語版『わたしのランターン』1968)から引用する。

 「わたしの学校!それはどういう種類であるべきだろう。規定されているカリキュラムとともに、実践的な宗教教育を与えるかたわら、国際の勉強をその具体的な教科目とする方法はないものかとわたしは考えた。わたしの生徒を通してわたしが国際友交のために貢献することはできないだろうか。戦争は、婦人が世界情勢に関心を持つまでは決してやまないであろう。それなら、若い人たちから−それも、少女たちから始めることである。少女たちはただの好奇心から出発して外国の人々や外国のよいところを理解するように導くことができる。キリスト教が第一に自己を尊重することを教えるとすれば、第二には、人種や階級に関わりなく他の人を尊敬することを教える。なぜならばすべての人類は神の子どもだからである。」

 河井道の英文著書“My Lantern” (1939)と“Sliding Doors”(1950)は欧米で広く読まれ、その売り上げは学園の教育資金として活用された。バーサ・ランバートやエスター・ニューエンドーファー等ブリンマー大学時代の友人たちは、河井道、一色百合の知人であるボナー・フェラーズやジョン・モット、エリザベス・ヴァイニングをメンバーに加えてMichi Kawai Christian Fellowshipを組織し、河井道没後も学園を支援し続けた。河井道が所属した富士見町教会牧師の植村正久、子女の教育を河井道に託した賀川豊彦等との交わりは生涯続き、一色百合の夫一色乕児は学園理事長として全力で河井道を支援した。日本国内にも世界各地にも、キリスト教の教派を超えた友人たちを河井道はなんと多く持っていたことか!

 マドラスにおける基督教世界会議(1931)に出席し、平和使節団(1941)メンバーとして訪米した河井道は、戦時中も、平和を祈り、世界の友のために祈り、毎朝の学園での礼拝を守り、英語を教え続けた。創立時から園芸を大切な科目としてきた恵泉女学園だが、1945年3月女子農芸専門学校設置の認可が下り、高等教育における園芸の歩みが始まった。現在も恵泉女学園中学・高等学校と恵泉女学園大学に必修科目として園芸の科目がおかれている。

 1946年河井道は教育刷新委員会委員となり、教育基本法制定に関わった。世界祈祷日英文祈祷文の執筆は1950年。日本短期大学協会代表として渡米した1951年には使命終了後、国際基督教大学の設立のための募金活動に奔走し、アメリカ各地で講演した。

 1953年2月、5ヶ月の入院生活ののち、75歳で召天。ベッドサイドには一色百合、一色義子がおり、病室内外を囲んだ恵泉関係者の祈りの中、天に召された。

 河井道没後60年以上を経た今も、河井道を「私の先生」と懐かしむ卒業生が多い。「『はい、いいえ、ありがとう、ごめんなさいが言える人におなりなさい』と教えていただいた」等々と。創立者の理念が今なお教育の中に継承されている学校、それが恵泉女学園である。

(Kyodan Newsletterより)

【4920号】人ひととき 中道 秀樹さん 命を与えるのは“霊”である

 幼少期、キリスト者である両親に連れられ、気が付いたら教会にいた。小学校に上がる前は、賛美歌を歌ったり紙芝居を観たり、楽しい思い出がいっぱい。しかし次第に足が遠のき、大学に入学した頃、教会から離れてしまった。その時は、自分は二度と教会に行くことは無いだろう、と思っていた。

 大学時代、イギリスに短期留学をした。そこで出会った日本人の友人が、キリスト者の学生サークルに誘ってくれた。そこで証を聞き、再び教会に足を向けるようになった。ただ、慣れない英語で説教を聴くことには苦労をした。必死に牧師の言葉に耳を傾けた。ある日の説教で「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない」(ヨハネ6・63)という御言葉に出会った。この御言葉は自分の心の奥にあった疑問を消し去り、受洗したいとの思いが与えられた。

 留学から帰国する際に立ち寄ったマレーシアのジャングルで、日本で作られた機器が、その地の人たちの生活を支えていることに感心をした。帰国後、就職活動で、その機器を作る会社の募集が目に飛び込んで来た。申し込み、無事に就職することができた。紹介された遠州教会に導かれ、2007年のクリスマスに受洗。

 海外出張の多い部署で、戸惑うことも多い。その中で、自分は教会に帰ることができたことを幸いに思う。

 しかし自分と同じ様に、クリスチャンホームで幼少期を過ごしながら、教会に戻れないでいる同世代の人たちも多い。その人たちを憶えて祈りたい。教会から離れているその時をも「霊」なる神様は大切に用いて、導きを与えて下さる。そして必ずその人に相応しい教会に戻る時期を与えて下さる。そのことを確信している。

1984年生まれ。遠州教会員

【4920号】冬はつとめて

 冬が来た。寒さと雪の季節だ。

 毎朝6時から早天祈祷会を行っている。目覚めたらまっさきに窓の外をのぞき、夜のうちに雪が積もっていたら、まずは身支度をして教会の玄関前の雪かきに出ていく。

 雪はこちらの都合にあわせて降ってはくれない。仕事のつまった忙しい日に限ってどかっと降る。なんとか時間を見つけて教会玄関や駐車場、教会前の歩道も除雪する。

 さすがに日曜日の朝には、気遣って早く来てくれる教会員に作業をゆだねる。週日にも、自宅の雪かきを終えた教会員が駆けつけてくれることがあるが、基本、教会のまわりは牧師の仕事だ。

 10年ほど前、会堂を移転新築し百坪以上の駐車場も確保した。この広さに、それまで使ってきた除雪機では力不足。大馬力の除雪機の購入を決断して教会員みんなでこつこつ特別献金を貯め、古い除雪機を売却し、他の基金も取り崩して、3年前にとうとう新品を購入した。

 ホンダのハイブリッド式、除雪幅92㎝、最大除雪量83トン/時間、エンジン排気量389㏄、価格は70万円弱。会員数十名の教会には大きな買い物だが、それを生かすも殺すも牧師の働きぶりにかかっている。

 ところがこの冬、札幌は記録的な少雪。せっかくの除雪機が所在なさげにうずくまっているが、牧師はほっとしている。

(教団総会副議長 久世そらち)

【4919号】新春メッセージ すべての命が救われるために 石橋秀雄

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。《イザヤ書53章2〜4節》

すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 《コリントの信徒への手紙二12章9〜10節》

 

悲惨を知る教皇の叫び

 昨年、クリスマスに向かう生活の中で世界が注目する出来事と世界に衝撃を与える事件があった。フランシスコ・ローマ教皇の来日と、中村哲医師の悲劇だ。

†††††

 11月23日フランシスコ・ローマ教皇が来日、11月24日午後6時10分から広島の平和記念公園でローマ教皇を迎えての「平和の集い」が開催された。この平和の集いに仏教の代表者、神社本庁総長、教派神道連合理事長、新日本宗教団体連合理事長、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の代表者19名が招待された。私も19名の一人として招待された。

 ローマ教皇の来日の目的は「すべての命を守るため」と知らされた。

 19名の席は前と後ろから照明で照らされる舞台のような席だ。周りは夜の闇に包まれている。平和の集いには2000名の参列者がいたが異常に静かだ。

 突然遠くで大歓声が起こった。そして、「フランシスコ・ローマ教皇の到着です。起立してお迎えください」とアナウンスされた。同時に私たちは斜め一列に並ぶことが求められた。私たち招待者にはローマ教皇との対話の時があると聞かされていた。

 教皇は、斜め一列に並ぶ私たち一人一人と丁寧な対話を重ねながら、その先の被爆者の席に進んで行った。斜めに並んだ意味は「すべての命を守るため」との祈りと思いを、19名の日本の宗教の代表者と重ねながら、被爆者の席に向かったのだと思った。

 教皇が被爆者の席に行き、高齢の女性の肩を長く抱きしめる姿に感動した。この高齢の被爆者の痛みを一身に受けとめようとする姿だ。同時に被爆地広島の悲惨を一身に受けとめようとする姿だ。

 被爆者の悲惨を受けとめた教皇は「核は犯罪で神に罰せられる。兵器で威嚇しながら、どうして平和の提案ができるか」、「真の平和は非武装以外ありえない」と語った。そして「原爆と核実験、あらゆる紛争の犠牲者の名により、声を合わせて叫ぼう、戦争はいらない、兵器の轟音はもういらない。こんな苦しみはもういらない」と、悲惨を知ったローマ教皇の叫びが闇を包む会場に響きわたった。

 

悲惨を知る主

 主イエスは人間の悲惨を知り尽くした救い主だ。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛み」(イザヤ書53章2〜4節)。

 「彼は私たちに顔を隠し」ている。本当の顔は隠されている。神の国で光り輝く顔は隠されている。ただひたすら惨めな姿をさらし、私たちの病、私たちの痛み、私たちの悲惨を知り尽くし、それを担って十字架に死んでくださった。全ての人間の命を救うために十字架の道を歩まれたのだ。

 

悲惨と悲惨とが信頼で

 12月3日に中村哲医師が銃弾の犠牲になって命が奪われ世界に衝撃を与えた。

 中村医師の死を伝えるニュースの中の加藤登紀子さんのインタビューに心が刺される思いがした。加藤さんはコンサートなどでペシャワール会を支え、中村医師が「ときさん」と呼ぶほどに親交があり、よく電話をするということだ。

 2008年のクリスマスの電話で明るく「『メリークリスマス』と言ったら、なんだか変。応答がない中村医師は嗚咽していた。『ときさん、実は僕はクリスチャンなんだよ』と話したそうだ。クリスマス、この喜びの日に中村医師は泣いていたという。「中村医師は純粋無垢な人だった」、「武器に屈してはいけない。信頼が第一だ」として活動する中村医師のことを、加藤さんは語っていた。

 「普通の生活をする」という夢をかなえるために働く人々が、タリバンがいるという理由で爆撃されて犠牲になる。純粋無垢な中村医師はクリスマスに、悲惨を知り尽くして十字架の主を見つめて泣いたのではないかと思った。

 アフガニスタンの人々は農業で生活をしている。干ばつで難民となった。難民の悲惨をなめ尽くした人々のただ一つの夢は「普通の生活をする」こと。水があり、食べることができ、家族と一緒に生活することだ。

 悲惨を知り尽くしている人々が「信頼が第一だ」と中村医師の言葉と指導で結びついて行った。用水路を造り、水が荒れ地に、砂漠に注がれ畑が緑に変わって行った。水のある所に動物が、魚が、鳥が生息するようになった。「二度と難民に戻りたくない」と懸命に力を合わせ、60万の人々の夢がかない「普通の生活をする」。まさに奇跡だ。

 「武器に屈してはいけない。信頼が第一だ」と訴え銃弾に倒れた中村医師。しかし、この命を懸けた中村医師の訴えと「すべての命を守るため」の目的をもって来日したローマ教皇の広島の叫びとが世界に響きわたった。

 

弱いときにこそ強い

 「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう…わたしは弱いときにこそ強いからです」(第二コリント12章9〜10節)。

 私たちの悲惨を知り尽くしておられるお方が、私たちの悲惨の中に宿ってくださるのだ。

 世界の危機、日本基督教団の危機、わたしの危機の中に2020年の歩みが始まる。この危機によって自分の弱さを、悲惨を思い知らされることがある。しかし、その最も弱いところに主が宿ってくださるが故に「弱いときにこそ強い」と言ええる希望の世界が開かれて行く。

(越谷教会牧師)

【4919号】荒野の声

 アフガニスタンで支援を行う医師、中村哲さんが凶弾に倒れた。現地で信頼関係を築きながら、生活の基盤を整えて行った働きは、国家による支援では実現し得ない実りをもたらしていた。▼平和を望まない人々が、敵意の渦巻いていることを示そうとしたのだろうか。よそ者の活動を嫌う民族主義的熱狂が強まっていたのだろうか。罪が生み出す「隔ての壁」を思わずにはいられない。▼その壁は、私たちの現実でもある。先進国では、年々「孤立主義」が強まっている。殺害されたのが、ジャーナリスト、あるいは宣教師だったらどうだっただろう。死を悼む声と共に、「余計なことをするな」、「外国にまで出て行って、自分の価値観を押し付けるな」と否定的な声が囁かれたかもしれない。▼多くの経典や倫理、哲学が「人にされたくないと思うことは、人にするな」と説くのに対して、主イエスは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と語る。▼消極的な関わりから積極的な関わりに一歩踏み出す時、避けられない罪故の苦難が生じる。その苦しみを担う時に、愛が生きられ、実りが与えられることを心に刻みたい。

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