【4583号】人ひととき 平野節子さん

人間を発見し、真ん中に礼拝を発見して歩む

思い立って、夫と相談して二人で「ピースボート」に乗り込んだ。フィリピンから始まり、東南アジア諸国、アフリカ、アメリカ、南アメリカ、…。南半球一周一〇二日間の船旅は、太平洋戦争の激戦地ラバウルに行き着く。
「じつは、まったくの観光目的でした」と平野さんは正直に語る。船上ではたしかに多くの学びの機会が与えられ、とくに環境問題の学習については、国内各地に行っては感じていた問題意識を持って臨んだ。しかし、もとは観光目的の旅で三ヶ月半はきつい。「ものすごく、空しくなりました」。
そこで平野さんは思いきって呼びかけた。「クリスチャンの方、集まりましょう」。四方は見渡す限りの海原、自ずと心は上を向くのか。九〇〇人の乗客の中から、一八人のクリスチャンが集まった。日本におけるキリスト者の割合の二倍だ。
礼拝が始まった。ある牧師の娘さんがお父上の説教集を持っていたので、それを読んだ。「何をやっていても、真ん中に礼拝がないとだめだと思いました」。海の上で、礼拝という「真ん中」ができた。今でも当時の仲間が言う。「教会を作っていましたよね」。
高校二年生の時、横浜指路教会で洗礼を受けた。ひとことで言えば「文学少女」。トルストイやドストエフスキーを通して、人間の心理的なものに興味を引かれていた。「いろいろな人間がいるんだ」。信仰と文学との出会いは、将来歩む道を備えていた。神奈川県の職員として知的障害児の施設や児童相談所で働き、子育ての目処がついてからは、地域作業所で奉職。所長を務めて定年退職。かねてから計画していたとおりCMCC(キリスト教メンタル・ケア・センター)へ。「人間は弱くなってきていると感じます」。「病に弱い人間」の発見を強く意識しながら、電話相談を受けている。あの「真ん中」が与えられることを祈る。

【4583号】出版局ニュース

★新刊から
『神学と牧会カウンセリング』〈ジョン・B・カブJr.=著、柴野雅亜規=訳〉日々を生きる信徒の生活に、神学はいかに出会うのか。神学と心理学、カンセリングの統合を目指す試み。四六判・一七六頁・二五二〇円
『慰めの祈り-病むときに』〈W・バークレー=著、小塩トシ子=訳〉「入院したときに」「眠れない夜に」など、病の中にいる人の具体的場面におくる、短い祈りと、聖書の言葉。今、病にある人に、医師や看護師に。四六判・一六二頁・一六八〇円
★重版から
『傷ついた癒し人-苦悩する現代社会と牧会者』〈H・J・M・ナウエン=著、西垣二一・岸本和世=訳〉四六判・二二四頁・二〇〇〇円

【4583号】関西農村センターで「協議会」開催

六月六日から七日にかけて、四七回を数える「農村地方教会教職信徒協議会」が兵庫県加西市にある関西農村センターで、二七名の参加者を得て開催、学びと協議の時を持った。
講師は君島洋三郎先生(農村伝道神学校校長)。農伝神学校五五年の歩みを紹介しながら、熱意をもって『農』へのこだわりを語られた。営利農場廃止後も実習を重んじるゆえんを「学生たちが農業実習で土に触れ、作物の命を育む体験を大切にしている」と。卒業後の教会現場を視野に入れた懸命の取り組みに感銘を受けた。
現場からの発題Ⅰは川端諭先生(滋賀・堅田教会)による「地方教会に赴任して」。成松伝道所、宝塚福井教会、そして堅田教会での働きの中での宣教の視点を踏まえて話された。聖書を読む時、イエスが当時「罪人」と呼ばれた人々の友となられたのを受けて、現代の教会がどこまでそのイエスに近づき、迫ることが出来るかとの課題、宿題をいただいた。
発題Ⅱは小西直人先生(岐阜・各務原教会)による農村地方教会という場で供される『食』がテーマ。教会でなされる会食の良さと豊かさを、改めて指摘された。そして、礼拝での聖餐と愛餐会でなされる共食の交わりにおける課題を投げかけられた。
各地の農村センターや『農』のグループは、場所によって取り組み課題も違っているかも知れないが、決して疲弊しておらず、元気であることを感じている。全国レベルでの『農』に連なるネットワーク作りが、さらに必要であることを確認して、関西農村センターからまたそれぞれの現場へと散会した。
(中村一義報)

【4583号】教務教師 神学教師からの声

指導者不足
佐々木勝彦
(東北学院大学文学部キリスト教学科教授)

これまで「キリスト教教育」は決して神学の主要部門ではなかったし、今もそうである。
しかし最近、その雰囲気が少しずつ変わり始めている。所謂「神学校・神学部」が「キリスト教教育」の専門教員を配置するようになってきた。
その理由のひとつは、教員資格審査の段階で文部科学省が「専門的な教育学」の訓練を受けていることを条件にするようになったからである。教員免許状取得資格を与えるからには、神学を学んだ者が片手間にやれる仕事ではないとの主張である。
この要求はやがて「神学校・神学部」にとって大きな負担になると思われる。
「専門的な教育学の訓練を受け、しかも神学の訓練を受けた者」と言われても、実際にはそう簡単に見つからない。少なくとも二つの専門教育を受けるには、学部だけで最低六年間の教育が必要であり、大学院での教育も不可欠になる。さらに難しいのは、仮にそのような有資格者が誕生したとしても、就職の機会がほとんどないため、その次の後継者を期待できないことである。
キリスト教教育の担当者がいなくなったらどうなるのか。その答えは明らかである。
「指導者不足」には、このような専門家の不足と共に、もうひとつの側面がある。それは現場の多様なニーズに応えきれないという意味での不足である。今や「教育」は「学校教育」に限定されず、家庭教育、地域教育、社会教育、平和教育、環境教育、生涯教育、等々、その範囲は限りなく拡大しつつある。それぞれが、固有な専門知識を身につけた指導者を求めている。
このような状況にあって「キリスト教教育」はどこに焦点を当てればよいのだろうか。もちろんすべてに応えることはできず、自らの責任範囲を明確に限定せざるを得ない。
しかしその基本的な学びの段階では、教育全般に対応しうる「基本姿勢」を身につけ、さらに専門知識を習得した後もこの姿勢を保持できるようにする必要がある。
では、具体的にどうすればよいのか。ここから先は指導者の数だけ答えがある。現場が違うからである。
私の現場では、伝道者になろうとする者、教師になろうとする者、社会福祉に関わろうとする者、一般の企業に就職しようとする者が、「共に」学んでいる。
「異なる目標」をもつ者が「キリスト教教育」の名のゆえに集まり、考え、体験と意見を交換しあっている。彼らに共通するテーマは何か。これが常に私に突きつけられている問いである。
「リーダーシップとは何か。」これが今年の研究テーマである。「教師論」から考えてみようというわけである。
社会が複雑になり、専門化すればするほど、むしろ全体に配慮する人間が必要になってくる。だが、個と全体を同時に生きるという厳しい課題に耐えられるひとはいない。しかしそれにもかかわらず、「キリスト教教育」には、そのような人間の出現を待ち望む確かな根拠が与えられている。問題は、その根拠をしっかりと見据えているかどうかである。

【4583号】消息

松本芳夫氏(隠退教師)
五月二三日、逝去。七七歳。栃木県に生まれる。一九五五年、同志社大学大学院修了後、輪島教会に赴任。六一年から二〇〇一年まで四〇年間、岸和田教会牧師を務め、隠退した。遺族は妻のすみさん。

松富 勲氏(隠退教師)
六月二日、逝去。九六歳。山口県に生まれる。一九三三年神戸中央神学校卒業後、武雄教会に赴任。四一年から七九年まで三八年間、筑後福島教会牧師を務め、隠退した。遺族は甥の古川真さん。

 

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