【4573号】世界宣教の幻は止まず JNAC最終総会開かれる

日・北米宣教協力会(JNAC)の最終総会が一月二四~二五日に米国ケンタッキー州ルイビルの米国長老教会本部で開催された。参加者は、北米各ボードから二名ずつの一二名。日本側は六名。ゲスト四名、通訳三名、スタッフ三名、の計二八名であった。教団/CoCからは山北宣久議長、竹前昇総幹事、久世了CoC議長、上田博子CoC総幹事が出席した。
総会は山北議長の「聖霊による導き」と題する英語による説教と司式、崔正剛在日大韓基督教会(KCCJ)総会長の祝祷による開会礼拝を持って始められた。協議はJNAC元コーディネーターのパット・パターソン氏の「JNACの宣教協力についての歴史的回顧」のレポートの発表から始められた。
パターソン氏は「一九七三年から三二年間JNACは多教派間の宣教協力のモデルであり、KCCJと教団の関係もJNACを通して深められ、また、人権問題、環境問題、沖縄の基地問題、女性の連帯等に取り組み、一定の成果を上げた。宣教師を含めた人事交流で共に神の国の宣教の業を担い合うことを学んだ」とJNACを高く評価した。そして、JNACは解散するが、時代にあった新しい形の共同体と協力体制を設立してほしいと結んだ。
解散に関する報告、会計報告に続き、JNAC解散の正式決議が可決された。解散の条件になっている在日本インターボード宣教師社団の定款の変更許可が文化庁から出ていないので、許可が下りた日を持って解散が有効となるという文言を付加しての決議書の作成となった。また解散公告も翻訳されて発表されることになった。
JNACの古文書についても協議された。この文書はJNAC関係だけでなく、JNACの前身であるIBC(基督教事業連合委員会)の関係文書も含まれている。日本と北米に保存されているこれらの文書は、教団/CoCとUMC(合同メソジスト教会)がそれぞれ責任を持って保管することが決定された。
解散後、JNACのメンバーで宣教協力の一環としてフォーラムが開催されることが前回の総会で決定されており、今回は、第一回を日本で開催することと、予算が可決された。さらにKCCJとの共同提案という形で、山北議長がフォーラムの具体的な内容の提案と主旨の説明をした。二〇〇六年または二〇〇七年の初めに同フォーラムを開催することが了承され、KCCJと教団で協議をして準備をすることとなった。
JNAC解散後は、KCCJと教団は北米各教会と個別に対応していくことになる。教団としては、北米各教会と宣教協約、宣教合意書、宣教覚書等何らかの文書を交換したいと山北議長が協議の中で提案した。今後教団は、北米各教会と折衝を重ねていくこととなる。
第一日の夜は宿泊ホテルで夕食会が持たれ、今総会のホスト教会である米国長老教会からも多数の関係者を迎えた。ゲストのパターソン氏、ボブ・ノーサップ氏(元コーディネーター)ヒロシ・ジョー氏、トニー・カーター氏(元在日会計)からJNACの忘れえぬ貴重な楽しいエピソードが語られた。
また、退任するスタッフへの献身的な働きに対する感謝が述べられ記念品が贈られた。そして、北米各教会には、KCCJと教団から日本語(英訳付き)の感謝状と記念品が両教会の総会長と議長から贈呈された。
教団はJNACの解散に伴い、CoCとの関係を今後どの様にしていくかが大きな課題となった。教団/CoCの関係は、わかりにくくなっており、北米側の理解を得にくい構造となっている。
JNACは二〇〇五年一月二五日、久世JNAC議長の挨拶、閉会礼拝のジョン・リーRCA宣教プログラム幹事の説教、ウィル・ブラウンPCUSA世界宣教局副ディレクター司式による聖餐式、上田博子CoC総幹事の祝祷をもってその歴史を閉じた。

【4573号】荒野の声

▼地震の被災地を豪雪が襲っている。新聞テレビで見ても、凄まじいばかりだ。▼初任地の教会は大通りに面していた。早朝ブルドーザーが走り、路面が見える程きれいに除雪される。その分、教会の玄関には、時に高さ二mの雪の壁ができる。朝六時頃、かちかちに凍り付いた雪に、スコップ時にはツルハシで向かい合う。九時からの教会学校に間に合わないくらい暇取ることさえあった。大雪が降るたびに、この繰り返し。▼雪について事実ありのまま記したら、大法螺或いは被害妄想と受け止められるだろう。出典不明だがこんな話を聞いた。「立ち小便するなかれ、この下に高田の町あり」。町全体が全く雪に埋もれているという意味だ。▼雪国の子供はそれでも雪が大好き、秋が深まると初雪を待つ毎日。田畑が清々しい雪に覆われると、寒さも忘れて心弾む。大人だって同じだ。今よりずっと雪が多かった江戸時代の『北越雪譜』、舞台は地震被災地域に重なる。豪雪に苦しみながらも、なんと雪を愛していることか。日本一と名高い米を初め多くの恵みも、雪がもたらしたもの。

【4573号】メッセージ

マルコによる福音書 八章三一~三八節

手をかけさせない神 古屋博規

イースターを前にしたレントの季節を迎えました。私たちは今、悔い改めと和解とを得て、共に聖餐に与るために、信仰への入門・再入門に備え、全ての者が原点に向き合うように導かれています。古代教会の人々は、四〇日間の修練(レント)の期間に、悔い改め・断食・祈りをもってこの時を迎えたと言われます。

執り成し

「人生は失敗と見ゆる処にて成功する。私が成ろうと熱望したのに成り得なかったそのことが私を慰める」(ロバート・ブラウニング)。この詩は、物事は成功だけでは判断できないことを教えてくれます。愛せる者を愛するということは簡単ですが、愛せない者を愛するという難しさを問われていることにも通じるような気がします。人間の営みの中に起こってくる様々な人間の振る舞いにも、神様は私たちと共にいまし、イエスの執り成される業を通して、私たちを原点に立ち返らせて下さることを覚えます。

手をかけさせない神

H・ナウエンは「傷ついた癒し人」の中で、「イエスは、健康と解放と新しい生への道を開くために、自分の身体を引き裂いて与えることにより、この物語に新しい豊かさをも与えられた」と言います。私たちに降りかかってくる、疎外・離別・孤立・孤独という、人間の傷のなかで最も苦痛なものが、驚くことに自らを傷つけている場合があります。この自分の痛みや苦痛が受け入れられ理解されたなら、自己否定はもはや不必要となるのですが、主イエスの受難と、復活の告知がもたらしたペトロの信仰をみてみますと、「あなたは、メシアです」(二九節)というペトロの姿勢が出て来ます。「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」(ローマ一〇章一〇節)と言われるとおり、確かに、ペトロは主イエスをキリストと告白しました。ところが、主イエスが、人の子の受難をしめすことで、ペトロの思いはがらりと変化します。せっかくイエスを主と告白しつつも、舌の根も乾かないうちにイエスを脇へと引き寄せてしまう様が伺えます。そんな変わりやすい、移ろいやすい人間であるにもかかわらず、顧みて下さる方がいるのです。「そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう あなたが顧みてくださるとは」(詩編八編五節)
「それからイエスは、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(マルコ八章三一節)と弟子たちに教え始められると、ペトロは、イエスを、自分の方に引き寄せ、疎外されているかのように痛みを示して否定の意志を示します。彼は、イエスはキリストと告白したものの、キリストの栄光の場面だけを考えて受難を望まなかったのです。それにも増して、ペトロは、イエスの教えに反抗して自己主張をしました。イエスの受難は、イエスとペトロの間の私的な事柄ではなく、すべての人に関わる公的な重要問題です。神の御心に敵対し、神の計画から人を誘惑に誘い、苦しめ、殺そうとしているペトロを、イエスは、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(三三節)と指摘して、ペトロに手をかけさせようとはしませんでした。

だからこそ

キリストに従うということは、生涯、イエスは主である、と告白し続ける事であります。イエスは、「わたしに従いなさい」(三四節)と、イエスに従うよう繰り返されます。自分が捨てられますか?と問われたなら、それは、禁欲主義的な否定ではなく、自己執着、自己信頼、自己追求などの自己目的化する思いを越えて、神に聴き、尊び、求め仕えることを積極的に目指すことだと言えるでしょう。私たちは、人には言えない苦悩や、弱さ、不完全さを持っています。それ故、自分は誤った生き方をしてはならない存在であると意識してしまいます。だからこそ、自分の十字架を背負って、キリストに従うためにあらゆる犠牲をもいとわないで、自分を捨てよと、イエスは自己中心性を厳しく否定されます。手をかけさせないとは、神の思いを越えないで、人の思いにとらわれないことです。それは、本当に、なかなか出来ることではなく、自分を愛するが故に難しい時が多々あります。
キェルケゴールは「死に至る病」の中で、死そのものが絶望ではなく、自分ではどうすることも出来ない淵に、陥ってしまうことが絶望だと言いました。絶望する時、自分を否定することが起こります。自分が自分であることがいやになり、ついには自殺までへと追い込まれ、人は手をかけてしまうのです。自分をもっと大きくしよう、自分を前に出そうと、他人を押しのけ、自分が絶望していることにも気がつかないで、自分自身の中で絶望に至ってしまいます。ペトロは、自分や周りに無関心となり、イエスを引き寄せ自分を大きく見せようとしたのです。主イエスは、そんなペトロにしっかりと向き合い「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(三四節)と応えておられます。「自分の十字架を背負う」と言うことは、自分の中にある醜さやいたらなさ、弱さ、欠け、破れを恥ずかしいことと思わないで、それを表に出して、ある時にはそのことを誇りにしながら歩いて行くことだと思います。神さまから与えられた現実から、逃げることなく、「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇って」(Ⅱコリント一二章九節)歩くことだということです。

にもかかわらず

先日の教師研修会の折り、年輩の先生方が、ご自分の伝道牧会のあしあとを振り返り、「あと○○年したら退かせていただきたい」と、後進の者たちに伝えておられました。無牧化しつつある地方教会の宣教、絶望しそうになる牧師の抱えている宣教のフィールド、都会のドーナツ化現象、これらの課題にどう向きあったら良いのでしょうか。実は、主イエスが弟子であるペトロに語りかけたことは、現代の宣教を担って行こうとする牧者への語りかけの様にも聞こえます。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(三四節)というイエスの言葉に、実際の私たちの現実は、従いきれず、手をかけようと自分に執着してしまう姿を隠せません。にもかかわらず、主は、私に向かって振り返り、手をかけさせまいと、「振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われ」(三三節)イエス・キリストの十字架のもとへと、私を引き戻して下さるのです。
(小石川白山教会牧師)

 

【4572号】お知らせ

★宣教師公募
任地=カナダ・フレザーバレー日系人教会                                                       /任期=2005年6月から3年間                                                              /条件=ハーフタイム(週20時間)                                                          /応募締切=3月10日/面接=3月18日                                                        /その他=英語力要詳細は世界宣教協力委員会にお問い合わせ下さい(TEL03―3203―0544)。

★神学校新卒者エキュメニズム研修会
時=3月7日(月)10時~16時半                                                          /所=AVACOおよび日本キリスト教会館(東京都新宿区西早稲田)                                            /講演(「グローバル化時代とエキュメニズム」植田仁太郎氏)、その他                                             /対象=2004年度神学校卒業予定者、教団教師検定試験CⅢ受験生および合格後一年以内の者                                 /要申込み・締切=2月末日                                                                      /主催・問合せ=NCC教育部                                                                      /TEL・FAX03―3203―0731                                                                 /E-mail(nccj-education@cello.ocn.ne.jp)

★映画「風の舞」~闇を拓く光の詩~、ビデオ(59分)化される
ハンセン病を病んだ過酷な闇の中で、生きることの意味を問い続けてきた詩人・塔和子のドキュメンタリー映画。監督・宮崎信恵、朗読・吉永小百合                                                                   /価格=六万円(送料別途)                                                               /販売=共同映画株式会社、TEL03―3463―8245、FAX03―3476―3757                                                  /問合せ=社団法人好善社 TEL03―3712―3845

【4572号】人ひととき 堀江悦男さん

恵まれた道を行く隻腕の設計技師

不慮の事故で利き腕を失って三〇年余り。人に知れない労苦も当然あろうが、「大きな障害や問題もなく、ただ恵まれた道を一所懸命に歩んできた」と、隻腕の設計技師堀江悦男さんは振り返る。
幼い頃、絵描きになるのが夢だった。しかし、周囲の人々の助言もあり、より現実的で絵描きの賜物も活かせる建築設計技師への道を選んだ。画家への夢と賜物は、創造的なデザイン・設計に存分に生かされ、やがて大きな建築設計を担当する機会が巡ってきた。
さらなるステップへのチャンスと、打ち込むのが当然だった。積み重なった過労は、いつしか限界を超えていた。朝の出勤時、駅のホームに立ちながら意識を失い、線路に転落した。ちょうど電車が入線してきたが、たまたま体が線路の間に入り、九死に一生を得た。ただ、命と引き替えに、大事な利き腕を失った。設計技師としては致命的だ。希望から絶望への転落となってもおかしくない事故だった。
残された腕の訓練のために、なぜか聖書を書き写していた。この転落事故は、自分が築いた虚構の価値からの転落とも受け止めた。一年後、事故以来初めての出社の帰り、なぜか教会に足が向いた。幼い頃通った教会だった。命が再び与えられた感謝を、誰に述べればよいのか。不確かだったが神への祈りをしていた。
建築関係の仕事はシビアな取引も多い。ルーズさへの誘惑もある。しかし、神の真実の前に生かれているかぎり、いつも愚直に信実であろうと努めている。とくに住宅の設計には、個人の具体的な生活に立ち入ることにもなる。そこで新しい生活が築かれることを思うと、家庭のあり方、生き方も問われる。
悦男という名は、子供の顔を見ずに応召した父が残してくれた。「いつも喜んでいなさい。どんなことにも感謝しなさい」。の言葉をどんな状況でも言えるように生きたいと願っている。

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