【4572号】人ひととき 堀江悦男さん

恵まれた道を行く隻腕の設計技師

不慮の事故で利き腕を失って三〇年余り。人に知れない労苦も当然あろうが、「大きな障害や問題もなく、ただ恵まれた道を一所懸命に歩んできた」と、隻腕の設計技師堀江悦男さんは振り返る。
幼い頃、絵描きになるのが夢だった。しかし、周囲の人々の助言もあり、より現実的で絵描きの賜物も活かせる建築設計技師への道を選んだ。画家への夢と賜物は、創造的なデザイン・設計に存分に生かされ、やがて大きな建築設計を担当する機会が巡ってきた。
さらなるステップへのチャンスと、打ち込むのが当然だった。積み重なった過労は、いつしか限界を超えていた。朝の出勤時、駅のホームに立ちながら意識を失い、線路に転落した。ちょうど電車が入線してきたが、たまたま体が線路の間に入り、九死に一生を得た。ただ、命と引き替えに、大事な利き腕を失った。設計技師としては致命的だ。希望から絶望への転落となってもおかしくない事故だった。
残された腕の訓練のために、なぜか聖書を書き写していた。この転落事故は、自分が築いた虚構の価値からの転落とも受け止めた。一年後、事故以来初めての出社の帰り、なぜか教会に足が向いた。幼い頃通った教会だった。命が再び与えられた感謝を、誰に述べればよいのか。不確かだったが神への祈りをしていた。
建築関係の仕事はシビアな取引も多い。ルーズさへの誘惑もある。しかし、神の真実の前に生かれているかぎり、いつも愚直に信実であろうと努めている。とくに住宅の設計には、個人の具体的な生活に立ち入ることにもなる。そこで新しい生活が築かれることを思うと、家庭のあり方、生き方も問われる。
悦男という名は、子供の顔を見ずに応召した父が残してくれた。「いつも喜んでいなさい。どんなことにも感謝しなさい」。の言葉をどんな状況でも言えるように生きたいと願っている。

【4572号】ボランティア活動報告 西東京

第34回教団総会の折に、関東教区から「新潟県中越地震被災支援センター」を立ち上げたので、各教区に献金とボランティアの協力の要請がありました。西東京教区では、関東教区からの協力の要請をそのまま教区内の諸教会に伝えました。
しかしその後間もなく、「西東京でまとまってボランティアを派遣した方がより実際的な協力ができるのではないか」という意見がだされ、「新潟県中越地震被災支援委員会」を教区内に作り具体的な検討に入りました。
東京教区西支区時代のことになりますが、阪神・淡路大地震の時に、二ヶ月近くボランティアを送ったことがあり、その当時参加した人々からも意見を聞き、関東教区及び十日町教会とも連絡を取りつつ計画を進め、十一月の第二週から十二月十一日までの四週間、十日町教会のボランティアセンターにウィークデイを中心に派遣することになりました。
教区諸教会に呼びかたところ、教職・信徒合わせて十五名が応募してくださり、またボランティアを支えるための献金もたくさんの教会や信徒の方々から献げられました。
奉仕の活動は毎日必要とされることを行なうので一様ではなく、他のボランティアの方々と一緒にいろいろなことを行いましたが、この奉仕を通じて、現地の方々と一緒に奉仕することができたこと、他教区からのボランティアとの共同作業ができたこと、時には他の宗教団体と一緒に作業する機会もあり、それらはみな貴重な出会いの経験ともなりました。
十日町教会の新井純牧師ご夫妻を初め十日町教会の方々は、牧師館が被災したにも関わらず、ボランティア受入のためにいろいろとご配慮してくださいました。
また、ボランティア受入のコーディネーターとして献身的に奉仕してくださった北畠友武・千原創両牧師のお働きでスムーズに奉仕することができました。この場を借りて感謝したいと思います。
(吉岡光人報)

【4572号】牧師のパートナー

健やかな時も病める時も
中条 鈴枝
(盛岡市・内丸教会員)

「みちのくは花盛りなり、君ら得て」と奥羽教区に温かく迎えられた。故浅野順一先生のご紹介でチリ地震津波後の港町大船渡で、開拓伝道に勤しむ牧師に嫁いだ。
故荒井源三郎先生は、「地方の伝道は台所教会、家内工業である。九九パーセントは夫人の力による。しかし牧師の一を加えて百パーセントになることを」。中山年道先生からは、「牧師夫人程、悪魔になるか、天使になるかの選択を日々求められる人はない」と大先輩の伝道者から頂いた心構えを胸に秘めて。
開拓伝道の幻を共にして、新居は礼拝堂であり、集会室であった。教会学校の生徒は溢れ、若者達は深夜まで、人生、神を語った。伝道所が生まれた事を知った人々が、牧師を訪ね、出入の多い日々を送った。
「二匹の魚と五つのパン」の奇蹟、スリルに満ちて、オサンドンに専心した。いろいろな補いの必要から英語塾にも力を注いだ。土地購入、会堂建築へと、プライバシーが限られる激しい生活、チャレンジングな営みが続いた。パイオニアの精神に鼓舞された若者達との出会いは、「あなた達の勲章よ」と煽てられて、その気になっていた。
しかし、十年の開拓伝道に疲れて、北東北、盛岡に移り、百年余の歴史ある内丸教会に招聘された。十二部屋もある文化財的西洋館、ネズミやゴキブリが走る空室は、勿体ないと、青年達を受け入れ、共同生活が始った。下宿人と共に思春期の一人息子も、豊かに伸びやかに育てられた。この結果に、神様のユーモアに驚いている。
羊飼いの食卓では、朝拝が守られ学生寮さながらの寮母の台所牧会、活気に満ちていた。地域の人々と共に用いられ民生委員も務めつつ、韓国の方の日本帰化手続きをお手伝いしながら、隣国、アジアへの関心、愛に目覚めさせて頂いた。牧師館のお客様と語らい、静聴しながら、お茶を供し、お宿もした。「急須」の役割が果たせるように願いながら。
主人の胃癌手術、続いて私の心筋梗塞で、相前後して医師に身を委ねて、一九九八年、隠退生活に入った。
奇跡的に病癒され、中条は、乞われてタイのハンセン病コロニーの職員に、ボランティアとして、日本語を教えに赴いた。私は、冠動脈バイパス再手術、大動脈弁置換術を二〇〇三年に受け、肺サルコイドーシスの治療も継続中である。
中条は「バンコク日本語キリスト教会・BJCC」に招かれ、二〇〇四年三月、彼の地で働くことになった。単身赴任である。おしどり夫婦には想像されない出来事であった。
隠退後、天使のような盛岡、教会の方々に囲まれて、独居の冬籠りを大切にしている。
毎朝九時、現地時間七時に、「ブーブー」「ブーブーブー」と無声のラブコールも楽しい。今日も、この生命用いられる感謝、世界の友にアンテナを高くし、連絡事務所の忙しさである。そして、絶えざる伝道への切なる祈りの内に、春を待つこの頃である。
『大夕焼け 窓いっぱいに 古希を越ゆ』 鈴枝

 

【4572号】消息

宮内俊三氏(隠退教師)
十一月十二日、逝去。九七歳。大阪府に生まれる。一九三一年日本神学校を卒業後、岩沼教会、小田原十字町教会、横須賀小川町教会、日本聖書協会等を経て、七四年から隠退する九六年まで浄風教会を牧会した。遺族は次女の明子さん。

児玉浩次郎氏(隠退教師)                                                            十二月七日、逝去。九五歳。宮崎県に生まれる。一九三九年同志社大学神学科卒業後、桐生東部教会、土佐教会を経て、五八年から七八年まで神戸教会を牧会し隠退した。その後、三木市にて開拓伝道に従事した。遺族は妻の寿美子さん。

黒田英彦氏(隠退教師)
十二月二九日、逝去。七一歳。兵庫県に生まれる。一九六二年関西学院大学神学部卒業後、神戸栄光教会に赴任。直方教会、御影教会を経て八一年から二〇〇二年まで三原教会を牧会し、隠退した。遺族は妻のいづみさん。

【4572号】教区コラム 千葉支区

千葉支区の課題と楽しみ 内田 汎

千葉支区には六二の教会・伝道所があります。大変乱暴で大雑把なくくり方ですが、以下のようにその開設状況をまとめることができるかもしれません。
日本基督教団成立までに十八の教会が設立されていました。ちなみに一八七九年に千葉教会(創立一二五周年)が開設され、創立百年を越える教会が十一あります。
第二次大戦後、一九五〇・六〇年代に二〇の教会が開設されました。東総分区、北総分区の農漁村部です。
七〇・八〇年代に二一の教会が開設されました。高度成長期の千葉県に呼応するように総武線、常磐線沿線、千葉内房分区、東葛分区です。
ここにもう一つ新しい動きが起こりました。一九九七年南房伝道所が開設され、その後長浦伝道所(〇二年)、君津伝道所(〇三年)が開設され、〇四年度内にはもう三つの伝道所の開設申請、申請準備が進められています。
首都圏への通勤可能な土地に次々と新しい住宅地が開発され、そこに人口が集中しています。千葉県はいくつかの人口集中地区に教会がなく、まだまだ開拓伝道の余地が残されています。それだけに支区全体の伝道戦略が求められてもいます。
現在の千葉支区は、社会の変化に伴う分区間格差、教会間格差が深刻です。
取り組むべき課題はありますが、この後千葉支区がどのようなところへ導かれるかも楽しみです。   (東京教区千葉支区長)

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