【4581号】人ひととき 森 民代さん

必要なものは与えられる

必要なものは、主が与えてくださる。それが、民代さんが信じてきたことだし、事実、これまでもそうだった。
民代さんの父、森敬造氏は関西学院に学んだメソジスト教会の牧師だった。必ず民主主義の時代が来ると三番目の娘に民代と名付けた。父の転任に伴い、家族も石川、愛知、愛媛と住まいを移った。戦争となり四年ごとの転任がなくなる。民代さんは、三瓶教会で小学生から高校生までを過ごし、父と母が教会に仕える姿を間近に見てゆく。父は伝道一筋の牧師だった。
終戦後、女学校を卒業した民代さんは、姉の学んだ東洋英和女学院に進みたかったが道が開かれなかった。東京・府中に開校された生活指導学校へ社会福祉主事になるべく進学した。
父は、娘たちに職業に就くことを強く勧めた。二人の姉は、それぞれに栄養士、幼稚園教諭となっていた。民代さんに与えられたのは幼稚園助手としての働きだった。二百名の園児が通ってくる大きな園で、宗教色はなかった。教会の中で育ってきた民代さんにはショックなことも多かったと言う。
助手としての仕事を続けながら、一九五四年に開設された原宿高等保育学校の一回生として学び、幼稚園教諭の資格を取得した。この学校での、キリスト教保育を志す仲間たちとの出会いは新鮮だった。
資格取得後、教会付属の南部坂幼稚園が教師募集していることを知り転職した。十分の一の園児数には驚いたが、聖書の言葉が通じる働き場が嬉しかった。園長の婦人牧師と共に懸命に園を運営した。神様のため、教会の幼稚園のため、子供たちに御言葉を伝えるためにここで働いているのだからとの思いに支えられたと言う。今、園児数は定員一杯にまで増えた。
この三月に四五年の働きを終えて、後任の園長にバトンを渡した。これからは、幼稚園委員会委員長として幼稚園を背後から支えてゆくことになる。

【4581号】篤いお祈りと温かいご支援を 中越地震・再建支援委員会

「新潟県中越地震」被災教会会堂等再建支援委員会が発足し、一億五千万円の目標を掲げ、全国の諸教会に支援のお願いを始めて半年が経ちました。現在約三千万円の募金が皆様のお祈りと共に寄せられています。ご協力を心より感謝いたします。
被災地は震災の後、例年にない豪雪にも見舞われました。関東教区発行の「被災支援センターニュース」11号に、「雪との戦いが終って、再び地震の被害との戦いが始まる。この痛みを負った被災地の現実に主の導きと私達の真心を持って望みたいと願っています」とありました。雪解けと共に被害の姿が再び露にされ、補強・補修工事を含め、復興作業が急がれます。
仮住まいを続ける牧師ご家族、体調を崩された信徒の方々、そのような厳しい中でなお主のお守りに感謝し、主を信じて前向きに歩んでおられるとのこと。新たな雪の季節を迎える前に、どうか再建・復興させていただきたいと願います。
多額の会堂建築負債を抱えた教会、移転再建を決意した教会もあります。信徒も被災した中で、各教会自身での再建は非常に困難なことです。
福音宣教の拠点として憂いなく活動する日が一日でも早く訪れますように、諸教会、信徒の皆様の篤いお祈りと温かいご支援をよろしくお願いいたします。
郵便振替口座/00130-8-315973、口座名 /中越地震被災教会支援募金
(朝岡瑞子報)

【4581号】伝道のともしび

「さいはて」こそ伝道の拠点

輪島教会牧師 勇 文人

朝、金沢方面に車で向かう途中、何台もの観光バスとすれ違う。「奥能登さいはての地めぐり」や、「辺境を旅する」などと銘打ってバスツアーが実施されているのが分かる。私は六年余前、輪島に遣わされた当初、この地が「さいはての地」と呼ばれていることに、あまり良い感情を持たなかった。
しかし、鉛色の雲に覆われ牧師館を揺らすような激しい暴風雪が連日吹きすさぶ冬は、荒涼としたイメージさえ漂わせる。能登半島の北端にある輪島は鉄道が四年前に廃止となり(今年三月には珠洲線が廃止となったために奥能登から鉄路は完全に消えた)、交通手段はバスと車しかない。同じ能登伝道圏を構成している「隣りの」七尾教会まで六〇キロ、羽咋教会まで七五キロ離れている。さらに金沢までは一二〇キロという地に住むと、車は貴重な交通手段となる。私の車の走行距離は毎年三万キロを超える。教会を訪ねる遠来の方が口をそろえて言うのは「遠いですね…」。なるほど、奥能登の地、輪島は「辺境の地」「さいはての地」なのかも知れない。
ところが、こんな「さいはての地」にも教会はたてられた。「地の果てまで救いをもたらさん」としたメソジスト教会の旺盛な伝道心がなければ、「真宗王国」と呼ばれる北陸の中でも、特に「伝道困難な地」である奥能登・輪島に福音の種が蒔かれることはなかっただろう。
そして、その旺盛な伝道心は、決して過去のものではない。今を生きる教会員一人ひとりにも脈々と受け継がれている。もちろん、具体的な数字となって教勢が伸びるわけではないかもしれない。過疎化・少子高齢化が進む地域にあって、それでも、常に朝夕で十五~二十人の礼拝出席者を維持し続け、教会学校も途切れることなく礼拝が続けられていることは、感謝である。まかれた種が芽を出し成長し収穫されることを信じて九十二年間ひたすら、福音の種が蒔かれ続けたのだ。
九年前に洗礼を受けた方は朝市で喫茶店をやっている婦人だが、子供のころ姉と一緒に教会学校に来たものの献金当番で祈ることがいやですぐに離れたという方だ。しかし、三十年後に夕拝に出るようになり、洗礼へと導かれた。三年前に受洗した婦人は朝市の煎餅屋さん。約四十年前に子どもたちを教会学校に送り出したことが教会とかかわったきっかけだが、四十年後に夕拝に出席するようになって洗礼へと導かれた。今年のイースターには二人の受洗者が与えられたが、そのうちの一人はかつてこの地にあったキリスト教幼稚園を三十年前に卒園した男性で、元園長との交流を通して礼拝に出席するようになり受洗へと導かれた。このように、蒔かれた種の収穫が幾世代もあとになることは、輪島教会においては珍しくない。この地での伝道は「林業的な伝道」だと言えるのかもしれない。
だからだろうか。日本伝道は、輪島教会にとっていつも祈りだった。この地から巣立っていって、日本各地の教会に連なっている人が少なくないからだ。具体的な人たちの名前と、その人が連なっている教会を覚えて祈っているし、輪島を離れていった家族や友人たちが連なることになるかもしれない教会のことを覚え、日本基督教団のためにも祈っている。
たとえ、「さいはての地」と呼ばれる土地であっても、住む私たちにとってこの地は決して「さいはての地」などではない。自分が住むこの地こそが中心だ。後ろは日本海。つまり、私たちの眼前には日本列島が広がっているのだ。

【4581号】消息

佐々木悟史氏(隠退教師)
三月二七日、逝去。七六歳。長野県に生まれる。一九五五年、東京神学大学大学院修了後、酪農学園教務教師、野幌教会を経て、六七年から八六年まで山梨教会、九一年まで西ドイツケルン・ボン日本語教会牧師を務め、九三年隠退した。遺族は妻の五津子さん。

照澤康晴氏(砥部教会牧師)
四月二八日、逝去。七五歳。東京都に生まれる。一九五三年日本聖書神学校卒業後、松山御宝教会に赴任。その後、卯之町教会、野村教会を兼任、旭川豊岡教会を牧会した。箱根伝道所、大井伝道所を兼務の後、〇三年から砥部教会牧師を務めた。遺族は妻の幸子さん。

【4581号】訂正

四五六二号三頁「消息欄」教師身分、「無任所牧師」を「無任所教師」に、また四五六二号、四五六三号、四五六六号、四五六七号、四五六九・七〇号、四五七四号、四五七七・七八号、四五八〇号三頁「消息欄」教師身分、「隠退牧師」を「隠退教師」にお詫びして、訂正いたします。

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